イエス様に出会う前のパウロは、ユダヤ人であることを誇り、律法の義においては非のうちどころがないと自負していました。しかし、復活のイエス様に出会った今は、それらは、「塵あくたにすぎない」と言います。なぜなら、主イエス様と親しく人格的に結び付けられたことの素晴らしいを知ったからです。そして、これまで誇りにしてきた肉的なものをすべて捨て去っても惜しくなく、それら一切を損失であったと見なすようになったからです。
パウロは、神の義を得るためには、律法による義が必要だと考えていました。それは、自分の力に頼ることであり、神様の憐みによって与えられることを知らなかったからです。しかし、キリストの信仰によって与えられた義に生きる時、神様の憐みに気づきます。肉に頼る生き方は、一時的・その場かぎりの平安を得ることができます。でも、イエス・キリストへの信仰によって「キリストの内にいる者と認められる」ことによって、肉の欲望を超えた魂の平安が与えられます。信仰とは、神様がキリストを通して私たちに差し出してくださっている救いを恵みとして受け入れることです。これほど幸せなことはありません。(牧師 篠田 裕俊)