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2026年1月11日「今、この時を信じて歩み出す」

聖書 マルコによる福音書2章1~12節

 マルコ福音書2章1〜12節は、屋根を壊してまで中風の友人をイエス様のもとへ運んだ四人の男たちの姿を通し、信仰の本質を問いかけます。イエス様が活動の核としたのは、奇跡そのものではなく「御言葉」を語ることでした 。特に「時は満ち、神の国は近づいた」という宣言は、救いを後回しにできない緊急事態であることを示しています。
 四人の友人たちは、常識外れの行動を通して、この「今しかない」という主の招きに必死に応答しました。イエス様は彼らの行動の中に「信仰」を見出し、単なる病の癒しに先立ち「罪の赦し」を宣言されました。「罪の赦し」とは、神様との隔てが取り払われ、孤独から解放されて新しい関係に生きることです 。イエス様は癒しの奇跡を通して、ご自身に罪を赦す権威があることを証明されました。
 私たちは、具体的な問題の解決だけを求めがちですが、主はそれ以上に、私たちが罪を赦され、神様と共に歩む新しい人生を今、決断して始めることを求めておられます。そして、十字架で私たちの罪を背負われたイエスと共に歩む喜びこそが、福音の核心であると結んでいます。(牧師 篠田 裕俊)

2026年1月4日「新しい一年、福音という光の中で」

聖書 マルコによる福音書 1章1~11節

 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
マルコ福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉から始まります。福音とは、状況が少し良くなるという知らせではなく、神様ご自身が人間の歴史に介入し、赦しと十字架によって救いを成し遂げられたという知らせです。
 洗礼者ヨハネは、荒れ野で悔い改めを宣べ伝え、水によるバプテスマを授けます。悔い改めとは後悔ではなく、神様から背を向けていた生き方の方向転換です。イエス様がヨハネからバプテスマを受けられたとき、天が裂け、聖霊が降り、「あなたはわたしの愛する子」という神の声が響きます。
 ヨハネのバプテスマが神様に立ち帰る招きであったのに対し、イエス様のバプテスマは、十字架と復活を経て、聖霊と新しい命を賜物として与えるものです。バプテスマによって私たちは神の子とされ、神様の愛の中で生きる者とされます。これこそが、今も私たちに与えられている福音なのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年12月28日「平和のうちに、主を待ち望む」

聖書 ルカによる福音書2章21~38節

 2025年の歩みが、主イエス様の導きによって守られたこと感謝します。イエス様は神の御子でありながら律法の下に生まれたのは、私たちと同じ制約や苦しみの中に降りてこられて「真の人」となるためでした。
 シメオンは幼子イエスを受け入れることで「救い」を見、平和のうちに去る希望を与えられます。一方アンナも、長い人生の苦難の中で救いを待ち続けました。救い主を受け入れる者には、死の影や時代の混乱をも超える「平和」が与えられます。現代の私たちは結果を急ぎ、待つことを恐れがちですが、救いは人の焦りによって完成するものではありません。キリストの十字架と復活に結ばれている私たちは、先が見えない時代にあっても、主と共に希望をもって待ち望み、平和のうちに歩む者とされているのです。
 主イエス様は、常に私たちと共に歩んでくださっています。新しい一年も、恐れに追われるのではなく、復活の希望を胸に、平和の主であるイエス様と共に一歩ずつ歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年12月21日「インマヌエルのクリスマス」

聖書 マタイによる福音書 1章18~25節

 クリスマスおめでとうございます。最初のクリスマスは、ヨセフが人生の岐路に立ち、孤独な決断を迫られる中で始まりました。婚約者マリアの懐妊という受け入れがたい現実に、ヨセフは「正しい人」として悩み抜きます。彼はマリアを守るために密かに縁を切ろうとしますが、それは神様の前に一人で立つ苦渋の選択でした。
 しかし、神様は、悩み苦しむヨセフに天使を送り、「恐れず妻マリアを迎えなさい」と語りかけます。信仰とは、すべての答えが出てから動くことではなく、恐れを抱えたまま神様の御言葉に「はい」と応え、神様に委ねることです。ヨセフの静かな従順とマリアの身を委ねる信仰を通して、インマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ばれる救い主イエス様が誕生しました
 神様は今も、不安や孤独の中にいる私たち一人ひとりに「恐れるな。私は共にいる」と語りかけておられます。クリスマスは、何かを成し遂げる日ではありません。神様の愛と希望を感謝して受け取る日です。この救い主が、今日あなたの心の中に誕生することを願っています。(牧師 篠田 裕俊)

2025年12月17日「神様はひとりにされない -マリアの讃歌-」

聖書 ルカによる福音書1章39節~58節

 マリアとエリサベトは、共に神様の言葉を信じつつも、誰にも相談できない不安と孤独の中に置かれていました。しかし神様は二人を出会わせ、不安を喜びへと変えられました。マリアがエリサベトを訪ねた時、胎内の子は喜び躍り、エリサベトは聖霊に満たされてマリアを祝福します。この出会いにより、孤独は破られ、二人は互いの存在を通して神様の慰めを深く味わいました。
 励ましに満たされたマリアの心は、「わたしの魂は主をあがめ」と歌うマリアの讃歌(マグニフィカト)となります。そこには、弱い者を高く上げ、飢えた者を良いもので満たすという神の愛の逆転が示されています。神様の救いは強い者からではなく、弱い者、貧しい者から始まるのです。
 神様は今も孤独や痛みを抱える者に目を留め、支えとなる人を備えてくださいます。教会もまた、神の名によって集う者が互いを支え合い、喜びを分かち合う場所です。待降節の今、神様が「あなたをひとりにしない」と語られる恵みに耳を傾け、やがて来るイエス・キリストの誕生を、喜びをもって迎えましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年12月7日「主が共におられる平和」

聖書 ルカによる福音書 1章26~38節

 待降節第二週、「平和」を象徴する天使のキャンドルが灯されます。平和とは、争いのない状態ではなく、神様が共におられることで生まれる心の平安です。平和は力ではなく共に生きることから始まります。
 受胎告知物語は、一人の普通の女性マリアに「神が共におられる平和」が訪れた出来事です。マリアは特別な人ではなく、神様の一方的な恵みによって選ばれました。天使の言葉にマリアは、恐れと戸惑いが生じましたが、深い沈黙と葛藤の末に「お言葉どおり、この身に成りますように」と応答します。
信仰とは迷わない心ではなく、恐れつつも神様を信頼して一歩を踏み出すことです。神様は強い信仰を求めず、弱さの中にいる人に「恐れるな、私は共にいる」と語られて応答を待っておられます。私たちも「どうして?」と問いながら歩む時がありますが、神様はその問いの先で待っておられるのです。
 待降節は、普通の女性から救い主が生まれた恵みを思い起こし、神様の言葉が私たちの人生に成ることを祈る時です。共におられる神様の平和を胸に歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年11月30日「小さき者に届く希望の献金」

聖書 使徒言行録4章32節~5章11節

 待降節第一主日に灯された小さなキャンドルは、暗闇に差し込む「希望」の象徴です。世界バプテスト祈祷週間を覚える今日、私たちが献げる献金もまた、小さな灯火のように世界の誰かの心に希望を届けます。
 使徒言行録には、復活の主に出会った初代教会の人々が「ひとつの心」となり、互いの必要を満たし合っている姿が描かれています。彼らが喜んで与えることができたのは、すべてが神様から与えられた恵みだと知っていたからです。バルナバは畑を売り、代金すべてを喜びのうちに献げました。一方、アナニアとサフィラは「全部献げたふり」をして神様の前で偽りを働きました。献金は金額ではなく心の誠実さが問われます。
 聖書は、献金の意味を三つ示します。第一に、献金は神への感謝のしるし。第二に、心の優先順位を神に向ける信仰の行為。第三に、教会を通して小さき者に届く愛の実践です。
イエス様は「最も小さな者にしたのは、わたしにしたのである」と言われました。私たちの献金は、届く相手を知らなくても、主の御手で祝福され、世界の小さき者に希望の光となります。私たちの小さな献げ物が、アドヴェントの灯火のように光を放つことを覚え、喜びをもって神様に応答していきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年11月23日「主よ、わたしはあなたを呼びます」

聖書 ヨエル書1章1~15節

 ヨエル書は、イスラエルを襲ったイナゴの大群が、畑も木々も実りもすべてを食い尽くし、人々の生活と礼拝を根底から揺さぶった出来事が語られています。ヨエルはこの壊滅的な災害を単なる自然現象ではなく、神様が人々の心を揺さぶり、悔い改めへと招く「主の日」の前触れとして受け止めて、「目を覚ませ、泣け」と呼びかけます。それは責める言葉ではなく、「痛みをごまかさず、神様の前に差し出しなさい」という愛の招きです。
 私たちの人生も、病、喪失、孤独、将来への不安など、土台が崩れるような出来事があります。そのとき私たちは悲しみや苦しみから目を背けようとしますが、ヨエルはそれを直視し、そこから神様へ向き直ることを促します。「主よ、わたしはあなたを呼びます」(1:19)。この祈りこそ、回復の第一歩だからです。
 さらに、「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」と語り、回復は人間の努力ではなく神様の霊によって始まると告げます。神様は「主の名を呼ぶ者は皆救われる」と約束し、イエス様は「わたしは復活であり、命である」と宣言されました。どんな荒廃の中にも、神様は新しい命を与えてくださいます。私たちも痛みを神様に委ねて、「主よ、わたしはあなたを呼びます」と祈り、救い主を待ち望んで歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年11月16日「倒れたものを立て直す神様」 

聖書 アモス書9章11~15節

 今日は、子ども祝福感謝礼拝です。神様の祝福が、すべての子どもたちの上に豊かにあることを祈ります。
 アモス書の最後は、倒れたイスラエルを再び立て直すという神様の約束の言葉です。イスラエルは神様を忘れ、不正に満ちて滅びましたが、神様は「ダビデの倒れた仮庵を建て直す」と語られました。神様は見捨てるのではなく、壊れたものを修復して、再び希望を与えてくださるのです。
 私たちの人生にも、失敗や人間関係のつまずき、心が折れる時があります。しかし神様は、「もう一度立ち上がろう」と声をかけ、倒れた私たちを立て直してくださいます。そして、神様の回復の祝福は、私個人で終わらず、周りの人々へも広がっていきます。アモスはそれを、絶え間ない収穫が続く「実りの季節」のイメージで描きました。
イエス様は、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言われました。どんなに疲れても、イエス様の愛が私たちの内に泉となってわき上がってきます。神様は、倒れた私たちを再び立て直し、豊かな実りを与えてくださいます。倒れたままで終わらない神様を信じ、感謝をもって歩みましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年11月9日召天者記念礼拝 「神様をもとめて生きる」  

聖書 アモス書5章4~15節

 今日は召天者記念礼拝です。これまで教会を支えてこられた兄弟姉妹を覚え、その生涯に注がれた神様の恵みを感謝します。神様は、愛する人の涙に寄り添い、復活と再会の希望を私たちに与えておられます。
 アモス書の御言葉「わたしを求めよ、そして生きよ」は、死を越えて生きる希望と、今日の歩みへの招きの言葉です。聖書は死を罪の結果と語りますが、神様は御子イエス様の十字架と復活によって「死は終わりではない」と宣言されました。私たちは、永遠の命が与えられて今を生きる者とされています。
 しかしアモスの時代、イスラエルの人々は豊かさに慣れ、信仰が形だけになっていました。礼拝しながらも弱い者を踏みにじり、不正がはびこっていたのです。神様が「ベテルへ行くな」と語られたのは、形式的な礼拝を戒め、心から神様を求めるよう促すためでした。神様を求めて生きるとは、神様と共に歩み、神様から受けた愛と正義を家庭や社会、教会で流していくことです。「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように」の言葉のように、神様の命は私たちを通して広がっていきます。召天者の信仰の証しもその流れの一部です。私たちも再会の希望を抱きながら、互いに支え合い、主を求めて生き続けていきましょう。(牧師 篠田 裕俊)