カテゴリー別アーカイブ: 週報(巻頭言)

2025年12月7日「主が共におられる平和」

聖書 ルカによる福音書 1章26~38節

 待降節第二週、「平和」を象徴する天使のキャンドルが灯されます。平和とは、争いのない状態ではなく、神様が共におられることで生まれる心の平安です。平和は力ではなく共に生きることから始まります。
 受胎告知物語は、一人の普通の女性マリアに「神が共におられる平和」が訪れた出来事です。マリアは特別な人ではなく、神様の一方的な恵みによって選ばれました。天使の言葉にマリアは、恐れと戸惑いが生じましたが、深い沈黙と葛藤の末に「お言葉どおり、この身に成りますように」と応答します。
信仰とは迷わない心ではなく、恐れつつも神様を信頼して一歩を踏み出すことです。神様は強い信仰を求めず、弱さの中にいる人に「恐れるな、私は共にいる」と語られて応答を待っておられます。私たちも「どうして?」と問いながら歩む時がありますが、神様はその問いの先で待っておられるのです。
 待降節は、普通の女性から救い主が生まれた恵みを思い起こし、神様の言葉が私たちの人生に成ることを祈る時です。共におられる神様の平和を胸に歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年11月30日「小さき者に届く希望の献金」

聖書 使徒言行録4章32節~5章11節

 待降節第一主日に灯された小さなキャンドルは、暗闇に差し込む「希望」の象徴です。世界バプテスト祈祷週間を覚える今日、私たちが献げる献金もまた、小さな灯火のように世界の誰かの心に希望を届けます。
 使徒言行録には、復活の主に出会った初代教会の人々が「ひとつの心」となり、互いの必要を満たし合っている姿が描かれています。彼らが喜んで与えることができたのは、すべてが神様から与えられた恵みだと知っていたからです。バルナバは畑を売り、代金すべてを喜びのうちに献げました。一方、アナニアとサフィラは「全部献げたふり」をして神様の前で偽りを働きました。献金は金額ではなく心の誠実さが問われます。
 聖書は、献金の意味を三つ示します。第一に、献金は神への感謝のしるし。第二に、心の優先順位を神に向ける信仰の行為。第三に、教会を通して小さき者に届く愛の実践です。
イエス様は「最も小さな者にしたのは、わたしにしたのである」と言われました。私たちの献金は、届く相手を知らなくても、主の御手で祝福され、世界の小さき者に希望の光となります。私たちの小さな献げ物が、アドヴェントの灯火のように光を放つことを覚え、喜びをもって神様に応答していきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年11月23日「主よ、わたしはあなたを呼びます」

聖書 ヨエル書1章1~15節

 ヨエル書は、イスラエルを襲ったイナゴの大群が、畑も木々も実りもすべてを食い尽くし、人々の生活と礼拝を根底から揺さぶった出来事が語られています。ヨエルはこの壊滅的な災害を単なる自然現象ではなく、神様が人々の心を揺さぶり、悔い改めへと招く「主の日」の前触れとして受け止めて、「目を覚ませ、泣け」と呼びかけます。それは責める言葉ではなく、「痛みをごまかさず、神様の前に差し出しなさい」という愛の招きです。
 私たちの人生も、病、喪失、孤独、将来への不安など、土台が崩れるような出来事があります。そのとき私たちは悲しみや苦しみから目を背けようとしますが、ヨエルはそれを直視し、そこから神様へ向き直ることを促します。「主よ、わたしはあなたを呼びます」(1:19)。この祈りこそ、回復の第一歩だからです。
 さらに、「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」と語り、回復は人間の努力ではなく神様の霊によって始まると告げます。神様は「主の名を呼ぶ者は皆救われる」と約束し、イエス様は「わたしは復活であり、命である」と宣言されました。どんな荒廃の中にも、神様は新しい命を与えてくださいます。私たちも痛みを神様に委ねて、「主よ、わたしはあなたを呼びます」と祈り、救い主を待ち望んで歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年11月16日「倒れたものを立て直す神様」 

聖書 アモス書9章11~15節

 今日は、子ども祝福感謝礼拝です。神様の祝福が、すべての子どもたちの上に豊かにあることを祈ります。
 アモス書の最後は、倒れたイスラエルを再び立て直すという神様の約束の言葉です。イスラエルは神様を忘れ、不正に満ちて滅びましたが、神様は「ダビデの倒れた仮庵を建て直す」と語られました。神様は見捨てるのではなく、壊れたものを修復して、再び希望を与えてくださるのです。
 私たちの人生にも、失敗や人間関係のつまずき、心が折れる時があります。しかし神様は、「もう一度立ち上がろう」と声をかけ、倒れた私たちを立て直してくださいます。そして、神様の回復の祝福は、私個人で終わらず、周りの人々へも広がっていきます。アモスはそれを、絶え間ない収穫が続く「実りの季節」のイメージで描きました。
イエス様は、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言われました。どんなに疲れても、イエス様の愛が私たちの内に泉となってわき上がってきます。神様は、倒れた私たちを再び立て直し、豊かな実りを与えてくださいます。倒れたままで終わらない神様を信じ、感謝をもって歩みましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年11月9日召天者記念礼拝 「神様をもとめて生きる」  

聖書 アモス書5章4~15節

 今日は召天者記念礼拝です。これまで教会を支えてこられた兄弟姉妹を覚え、その生涯に注がれた神様の恵みを感謝します。神様は、愛する人の涙に寄り添い、復活と再会の希望を私たちに与えておられます。
 アモス書の御言葉「わたしを求めよ、そして生きよ」は、死を越えて生きる希望と、今日の歩みへの招きの言葉です。聖書は死を罪の結果と語りますが、神様は御子イエス様の十字架と復活によって「死は終わりではない」と宣言されました。私たちは、永遠の命が与えられて今を生きる者とされています。
 しかしアモスの時代、イスラエルの人々は豊かさに慣れ、信仰が形だけになっていました。礼拝しながらも弱い者を踏みにじり、不正がはびこっていたのです。神様が「ベテルへ行くな」と語られたのは、形式的な礼拝を戒め、心から神様を求めるよう促すためでした。神様を求めて生きるとは、神様と共に歩み、神様から受けた愛と正義を家庭や社会、教会で流していくことです。「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように」の言葉のように、神様の命は私たちを通して広がっていきます。召天者の信仰の証しもその流れの一部です。私たちも再会の希望を抱きながら、互いに支え合い、主を求めて生き続けていきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年11月2日「恵みを知る者の責任」 

聖書 アモス書2章6~16節

 アモスは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者として生きていた普通の人でした。その彼を、神様は召されて、北イスラエルに向けて預言しました。当時のイスラエルは繁栄の中にありながら、不正と搾取が横行し、貧しい者が踏みにじられていました。人々は礼拝に熱心でありながら、日常では神の正義を無視していたのです。アモスはそのような民に向かって、「神様の恵みを知りながら背いた」と厳しく語りました。神様はイスラエルを愛し、エジプトから救い出し、導いてこられた方です。その恵みを忘れたことが罪の根でした。
 神の民には「恵みを知る者の責任」があります。信仰は日曜日の礼拝だけでなく、平日の生活の中にこそ現れなければなりません。隣人を愛し、正直に歩むことが、神様の恵みに応える生き方です。神様の裁きは怒りではなく、愛の痛みであり、悔い改めへの招きです。イエス様は、今日も「悔い改めよ。天の国は近づいた」と呼びかけておられます。その招きに応えるとき、赦しと回復、そして新しい希望が与えられます。(牧師 篠田 裕俊)

2025年10月26日「ヨナに問われた神の愛」 

聖書 ヨナ書4章1~11節

 ヨナは、神様がニネベの人々を赦されたとき、深く怒りました。敵国アッシリアへの裁きを願っていた彼にとって、神様の憐れみは受け入れがたいものだったからです。しかし神様は、とうごまの木を通してヨナに語られます。自分が育てもしなかった木を惜しむなら、どうして神が十二万人もの命を惜しまれないだろうかと。
 人はしばしば、自分の正義に囚われ、他者を裁くことに熱心になります。しかし神様の心は、滅ぼすことではなく、生かすことにあります。神様の憐れみは、ふさわしい者だけでなく、私たちが「赦されるべきでない」と思う者にも注がれているのです。
 ヨナの物語は、私たちの姿でもあります。思い通りにならない現実の中で怒りや不満を抱える私たちに、神様は「あなたはなぜ怒るのか」と優しく問いかけられます。神様の憐れみは、怒りを越え、赦しへと私たちを導いてくださるのです。
 神様は、「わたしはだれの死をも喜ばない。立ち帰って生きよ」と言われます。なにより神様は、独り子であるイエス様をお与えになったほどに、この世を愛され、イエス様を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得ることを願っておられるのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年10月19日「失敗の先にある神様の希望」

聖書 ヨナ書3章1~10節

 ヨナ書3章は、「主の言葉が再びヨナに臨んだ」という言葉から始まります。神様の命令を拒み逃げたヨナに対して神様は、あきらめず再び語りかけられたのです。この「再び」という言葉には、神様の限りない赦しと希望が込められています。現代社会は「失敗を恐れる社会」となっていますが、神様は失敗の中にも可能性を見出し、「もう一度やり直そう」と語られるのです。
 ヨナは、その言葉に従い、ニネベの人々に対して「あと四十日すれば、ニネベは滅びる」と叫びます。すると、人々は身分を問わず断食し、悪の道を離れて悔い改めました。神様はその心を見て「思い直され」、滅びをやめられました。この出来事は、神様が裁きよりも赦しを喜ばれるお方であることを示しています。
 神様の愛は敵にさえ及び、どんな人にも救いが与えられます。私たちが失敗の中で立ち止まっても、神様は「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と語られます。神様の「再び」という呼びかけと「思い直される」憐れみは、過去の過ちを超えて新しい希望へと導く恵みの言葉です。私たちはその声に「はい」と応えて歩み出すとき、失敗の先にある神様の希望を生きる者とされるのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年10月12日「救い主は、主にこそある」

聖書 ヨナ書2章1~11節

 ヨナ書2章は、神に背いて逃げたヨナが、死の淵で神の憐れみに出会う物語です。ヨナは海に投げ込まれ、絶望の中で「陰府」に沈みながらも、主に祈り、助けを求めます。主は大魚を備え、ヨナの命を救われました。
 暗闇の中でヨナは、自分が主から見捨てられたのではなく、主が追いかけ、救い出してくださったことを悟ります。そして「救いは、主にこそある」と感謝の祈りをささげます。
 私たちもまた、人生の暗闇の中で不安と孤独を感じる時がありますが、イエス・キリストは「ヨナのしるし」として死と復活を通し、今も生きて働かれる救い主です。イエス様は、逃げる者、傷つく者を見捨てず、憐れみをもって導かれます。どんな苦しみの中でも、イエス様を信じ、希望をもって歩む時、私たちは確かに主の救いの御手の中にあります。救いは、主にこそあります。主イエス・キリストの愛と憐れみを信じて、希望をもって歩んで行きましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年10月5日「逃げても追いかけてくださる神様」

聖書 ヨナ書1章1~16節

 ヨナ書は、神の召命から逃げるヨナの姿を描いています。ヨナは、神様から敵国アッシリアの都ニネベに行き、悔い改めを呼びかけよと命じられました。しかしヨナは「異邦人に救いなどあり得ない」と考え、その命令から逃れるためタルシシュ行きの船に乗ります。けれども神様は嵐を起こし、ヨナは人々によって海に投げ込まれます。ここで示されているのは、第一に、私たちもまた神の思いより自分の思いを優先し、神から逃げてしまう存在であること。第二に、その不従順は自分だけでなく周囲をも苦しめるということ。そして第三に、神はなおも見捨てず、回り道を通してでも立ち返らせてくださる憐れみ深いお方であるということです。
 嵐も魚に飲み込まれることも、実は裁きではなく「救いのための恵みの手段」でした。私たちはどこに逃げても神様から隠れることは出来ません。むしろ神様は追いかけ、捕らえ、再び立たせてくださるのです。イエスは「疲れた者、重荷を負う者はだれでも、わたしのもとに来なさい」と招かれました。私たちもその招きに応え、神の憐れみのもとに立ち返りましょう。(牧師 篠田 裕俊)