「神を畏れて命を尊ぶ」 出エジプト1:15-21

「助産婦はいずれも神を畏れていたのでエジプトの王が命じた通りにはせず、 男の子もいかしておいた」 (出エジプト記1章17)

内田樹(うちだたつる・哲学研究者、思想家、倫理学者)という方は大学教育に関して、「教養課程」とは本来は「コミュニケーションの訓練」のためにあったと言っています。自分と他者(もしくは物や事柄)との関係においては自分が変わる、自分の狭さを打ち破る事を学んでゆくのです。

外国語の習得などはその典型的なもので、外国語や外国語を話す人という異質な存在に対して自分から変わってゆく事(学んでゆく事)を通して関係を作ろうとする大切さと技術を学ぶというのです。それに対して「専門課程」を「内輪のパーティ」と内田さんは語ります。知っている事を前提に専門用語を使う。その言葉を知らない者は自分で学び、それに加わってゆく。そしてさらに専門性を深めて行くというのです。

そして内田さんはこう言います、『ところが「内輪のパーティ」だけでは専門領域は成り立ちません。ある専門領域が有用であるとされるのは、別の分野の専門家とコラボレーションすることによってのみだからです。

『ナヴァロンの要塞』でも『スパイ大作戦』でも「チームで仕事をする」話では、爆弾の専門家とか、コンピューターの専門家とか、格闘技の専門家とか、変装の専門家とか、色仕掛けの専門家とか、そういう様々な専門家が出てきます。彼らがそれぞれの特技を持ち寄って、そのコラボレーションを通して、単独では成し遂げられないほどの大事業が実現される。』(内田樹『街場の教育論』ミシマ社、2008年、91-92ページ)

王はすべてを支配しようとしていました。力と権力エジプトという内輪のパーティを守ろうとしたのです。助産婦たちは一つの命が生み出されるという事柄が単独では成し遂げられない大事業である事を知っていました。生み出す母と生まれてくる命と助け手が揃って初めて成し遂げられる。そして人はいつの時も何かの、誰かの助けを借りなければ生きることは出来ないのです。私達はそのように神に創られたのです。その神を彼女たちは畏れるのです。(田中伊策牧師)

神を畏れて命を尊ぶ 出エジプト記1章15-21節