「祈りの尊さ」 使徒6:1-6

キリスト教は始まりの時代、信徒の心や信仰の事だけでなくその生活の事にも心を傾けていました。貧しい人たちの生活のために食べ物の分配をしていたのです。

使徒言行録6章にはまずその事が記されています。そんな中で問題が起こります。「ヘブライ語を話すユダヤ人」(生粋のユダヤ人)と「ギリシア語を話すユダヤ人」(外国で生まれ育ったユダヤ人)との間での争いが起こったのです。

その時に12使徒は弟子達を集めて言います「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」(2節)。何か感じの悪い言い方に聞こえます。自分たち使徒がそんな食事の分配の事なんて出来るか!と言っているようです。

しかし、その後の言葉が大切です、「あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を選びなさい」。食事の分配のお世話や苦情の解決をする人を選ぶ基準として霊と知恵に満ちた人を挙げているのです。人間的な賢さ上手さではなく、“霊”つまり神様としっかり結びついておりその神様から解決の“知恵”を頂ける人であることが大切だ、というのです。

教会はいろんな方々の奉仕があって成り立っています。礼拝の中の奉仕もあるし、掃除の奉仕も、食事の奉仕もあります。そこに求められる事柄も同じです。掃除ひとつとっても、食事の準備ひとつとっても、求められるのは神様から促されて行うということです。 そしてそのために大切な事をこの聖書の箇所から教えられます。

7人の人が選ばれた時、「使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた」(6節)。奉仕をして下さる方は必要ですし大切です。でも、そのままでは奉仕は限界ある人間の働きのままです。その人間の業を祈りが神の働きに変えます。ですから体を動かす奉仕者が用いられるために祈り手は欠かせません。 「こんな奉仕にはそれほど価値はない」と思うかもしれません。でもその奉仕も“霊”と“知恵”を必要とする大切な奉仕です。「もう奉仕が出来ない私には価値がない」という言葉を聞く事があります。でも人の業を神の働きに変える祈りに優る奉仕はありません。(牧師)

 

祈りの尊さ 使徒言行録6章1-6節