タグ別アーカイブ: 使徒

「私が『良い!』と言っている」 使徒10:9-16

ある日、イエスの弟子のペトロは祈るために屋上に行きます。昼だったので空腹でボーっとなったペトロは次のような幻を見ます。「空から四隅をつるされた布が降り来ます。その布の中には律法で食べる事を禁じられている動物が入っており、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』(13節)と声が聞こえました。しかしペトロは『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません』(14節)と言います。すると再び『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはなりません』(15節)と声がしました。そんなやり取りが3度あり、やがて布は空に引き上げられました」こんな幻です。

ペトロはユダヤ教徒である「自分は清い」と思っているから「清くない物は食べてはならない」と思います。ですから「清い物」は「清い人(ユダヤ人)」、「汚れた物」も「汚れた人(異邦人)」と考えることが出来ます。ところが、この時ペトロは「皮なめし職人シモン」(8節)の家の客になっていました。「皮なめし職人」とは、動物の皮を加工する仕事をする人で、ユダヤ社会では蔑視され汚れた者と見なされていました。

その「汚れた者」と呼ばれる人の家にお世話になりながら、自らを清い者として「汚れ」を拒否するペトロの姿は滑稽です。しかし、滑稽では済まされません、「汚れた者」を作り出し、踏みつけて「聖なる者」を気取るそこにこそ人間の罪があるからです。

そして「清い」者は「汚れた」者によって支えられ生かされているのです。でも、それを認めたくないのです。ペトロもそうだったかもしれません。そんな時に、天から声が聞こえます、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはなりません』。この言葉は、人間が作った価値観をぶち壊す言葉です。「私はすべての人を尊いとし、清いとする。そのために十字架は有る。私を信じるあなたは自分や他者に貴賤を付けてはならない。食べなさい。私が『良い!』って言っているのだから」。

かつて、アメリカで公民権運動(黒人をはじめとする有色人差別の廃絶の運動)の担い手だったマルチン・ルーサー・キング牧師(1929-1968)は語りました。「私には夢がある。いつかジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、兄弟愛のテーブルに仲よく座ることができるようになるという夢が。」ペトロ(私達)への言葉と重なります。 (牧師:田中伊策)

「私が『良い!』と言っている」 使徒言行録10章9-16節

「出来る時には気づかない」 使徒9:1-6

「出来る時には気づかない」 使徒言行録9章1-6節

パウロという人は旧約聖書の戒めを一生懸命に守る人でした。そして人にも守らせようとし、それが守れない人、守らない人にはとても厳しい人でした。きっと、パウロは何でもよく出来る人だったのでしょう。そうでなくては山のようにある旧約聖書の律法をちゃんと守れるはずがありません。

でも、出来るが故の落とし穴もあります。自分が基準になってしまう事です。「私は一生懸命しているのにこの人はしていない」「私は頑張っているのにこの人は諦めている」「私は正しく、この人は間違っている」。出来ない人の痛みも、その人が違う事をしている理由も考えようとしません。

「やればできる」それが出来る人の傲慢であることに彼は気づきません。 ある時パウロは、ただ愛するために生き、そして十字架にかかって死んだイエスという人物の影響を受けた人々の事を知ります。「あいつらは『律法は愛だ』などと言う。それは出来ない言い訳だ。そんな不届きな連中は罰せねばならない」そう思い、次々に捕まえては罰を与えてゆきました。

にもかかわらず、彼らは愛するということを止めようとしないのです。だからまたパウロは追いかけまわすのです。そんな中、パウロは旅の途中でまぶしい光の中、イエスに会うのです。「私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべき事が知らされる」。その言葉に視力を失ったパウロは従います。町に入ると、「イエスから行きなさいと言われたから」という理由で彼の元にやって来たアナニアという人物から目を癒してもらいます。

サウロは「この厳しい律法を守る事こそが大事だ」と思い、「愛なんて律法を守れない者の言い訳だ」と思っていましたが、自分が迫害してきたキリスト教徒から介抱された事を通して、愛する事がどれだけ難しく、尊い事かを知ります。パウロの完敗です。そしてイエスとの出会いによって本当に大切なものを知ったパウロは、キリスト教徒となり、キリストを伝える者となります。 人間出来るうちは、なかなか出来る自分の価値を捨てられません。そしてもっと大きな価値があることに気づくことが出来ません。大切に握っているその手の中のものよりも、もっと尊く、もっと大切なものを気づくことが出来たらもっと嬉しい人生を送られるはずです。

「最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリント13:13) (牧師:田中伊策)

「祈りの尊さ」 使徒6:1-6

キリスト教は始まりの時代、信徒の心や信仰の事だけでなくその生活の事にも心を傾けていました。貧しい人たちの生活のために食べ物の分配をしていたのです。

使徒言行録6章にはまずその事が記されています。そんな中で問題が起こります。「ヘブライ語を話すユダヤ人」(生粋のユダヤ人)と「ギリシア語を話すユダヤ人」(外国で生まれ育ったユダヤ人)との間での争いが起こったのです。

その時に12使徒は弟子達を集めて言います「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」(2節)。何か感じの悪い言い方に聞こえます。自分たち使徒がそんな食事の分配の事なんて出来るか!と言っているようです。

しかし、その後の言葉が大切です、「あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を選びなさい」。食事の分配のお世話や苦情の解決をする人を選ぶ基準として霊と知恵に満ちた人を挙げているのです。人間的な賢さ上手さではなく、“霊”つまり神様としっかり結びついておりその神様から解決の“知恵”を頂ける人であることが大切だ、というのです。

教会はいろんな方々の奉仕があって成り立っています。礼拝の中の奉仕もあるし、掃除の奉仕も、食事の奉仕もあります。そこに求められる事柄も同じです。掃除ひとつとっても、食事の準備ひとつとっても、求められるのは神様から促されて行うということです。 そしてそのために大切な事をこの聖書の箇所から教えられます。

7人の人が選ばれた時、「使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた」(6節)。奉仕をして下さる方は必要ですし大切です。でも、そのままでは奉仕は限界ある人間の働きのままです。その人間の業を祈りが神の働きに変えます。ですから体を動かす奉仕者が用いられるために祈り手は欠かせません。 「こんな奉仕にはそれほど価値はない」と思うかもしれません。でもその奉仕も“霊”と“知恵”を必要とする大切な奉仕です。「もう奉仕が出来ない私には価値がない」という言葉を聞く事があります。でも人の業を神の働きに変える祈りに優る奉仕はありません。(牧師)

 

祈りの尊さ 使徒言行録6章1-6節

「復活の証人」 使徒9:1-9

復活の証人
使徒言行録9章1-9節

新約聖の中には多くの「手紙」が収められています。個人から個人へ、個人から教会へ、励ましや慰め、激励や忠告、質問の答えなど内容は多様です。

その中のいくつかは「パウロ」という人物が差出人となっています。パウロがイエス・キリストを伝えるために外国を旅し、そしてそこで生まれた教会に宛てたのです。

しかし、このパウロは元々ユダヤ教の熱心な信者で、クリスチャンを捕らえてエルサレムに連れて行っていました。ところがパウロは復活のキリストと出会います。その出会いが使徒言行録の9章1―9節に書かれています。しかし、「サウロ(パウロ)が旅をしてダマスコに近付いた時、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。」(4―5節)。

この出会いによって彼は回心し、逆に熱心なクリスチャンとなります。しかし、その歩みは非常に困難なものだと推測出来ます。キリスト教の迫害者であったパウロが回心してクリスチャンとなったという事は、パウロという人間がユダヤ人からもクリスチャンからも迫害される立場になる事でもあったからです。

だからこそパウロは伝道の場を外国に求めたのかもしれません。しかし、そうまでしてもパウロはキリストを伝えようとしたのです。パウロのその原動力はどこにあったのでしょう。それはやはり復活の主と出会った事です。復活の主と出会わなければ、このパウロの大きな方向転換はあり得ません。迫害されても、罵られても、疑われても、キリストを伝えようとするその生き方そのものが復活のキリストを伝えています。

パウロは正に復活の証人です。 私達もそうです。クリスチャンとして生きるという事は復活の証人として生きるという事です。キリストの復活が伝わるような生き方をしたいと思います。 (牧師:田中伊策)