「一歩先も照らされている」 詩編119:105

「真っ暗」という状況をなかなか感じることが出来ない時代になりました。お店の看板、街燈、信号、コンビニ、‥など、真夜中でもどこかに光があります。光があるということは安全であるということでもあります。光は行く先を照らし、目的地へ導いてくれます。また危険を察知し、回避する事が出来ます。

しかし、多すぎる光は闇の存在を忘れさせます。もしかしたら、この世の中は不安や危険を忘れさせるためにたくさんの光で照らしているのかもしれません。見えない先を自分たちの作った光で照らし「ほら、こんなに世の中は明るい。ほら、こんなに未来は明るい」って言っているのかもしれません。

でも、人の作った光の先に本当の未来はあるのでしょうか。もっと未来を明るくしよう、と言って私達の手に負えない原子力を使ったり、安全や安心のために、と言って戦争しても負けない国にしようとしたり。それは本当の光なのでしょうか。その先には人の作った闇が待っているように思います。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯。」と詩編の作者は言います。「あなた」とは神様です。ここで言う「光」とか「灯」とはきっと小さなランプのことでしょう。昔は、闇はちゃんと闇でした。この大きな闇の中でこの小さな灯は自分の足元を照らしたり、自分の顔や近くにいる人の顔を照らしたりする事しか出来なかったでしょう。そして神様の言葉はそんな小さな灯だというのです。そういうと何か頼りなさそうな感じがします。もっと明るく照らして欲しいと思います。

でも、本当は明日の事なんて誰も分からないのです。先に何があるかなんて分からないのです。真夜中でも眩しく輝き、未来を照らす光なんてまやかしです。夜は暗いのです。神の言葉は小さな灯火。でも、その灯火を持って歩くならば、その灯火によって一歩先も照らされています。その灯火によって照らされている今日を生き、そして明日も光は足元を照らしてくれると信じて、次の一歩を踏み出すのが信仰です。その踏み出した一歩で出会う人と一緒に光を喜びましょう。 (田中伊策牧師)

 

一歩先も照らされている 詩編119編105節