「「委ねる」という事」 マタイ19:16-22節

「金持ちの青年」という題がついているこの聖書の箇所は、他の福音書にも類似の記事があります。マルコ10:17-31、ルカ18:18-30です。そして、それぞれには違いもあります。このマタイでは「青年」であるところがマルコでは「男」とか「人」と書かれています。ルカでは「ある議員」と書かれています。これだけでも大きな違いです。

「男」「人」と書かれたマルコでは単に財産を持った人物、「議員」と記すルカではそれに加えて名誉も持っていた人物、という設定です。では「青年」だったらどうでしょうか。そこから考えられる事は、彼が自分で稼いだお金ではない、ということです。今だったら「大学生が在学中にIE企業を作って大儲け」なんて話も聞きますが、そこは2000年前。そんな奇抜な設定にはしないはずです。

「金持ちの青年」とは、つまり裕福な家庭に育ち、所謂「良い」教育を受け、優等生で育って来た青年です。 そんな彼は自分に足らない所がある事を感じていました。それでイエスのところに行って尋ねます、「先生、永遠の命を得るには、どんな善い事をすればよいのでしょうか。」(16節)。そしてイエスの言葉に対して「そういうことはみな守ってきました。」(20節)と答えます。彼は間違わないように、後ろ指をさされないように、そして握っているものを離さないように頑張って来たのでしょう。

「永遠の命」とは決して「いつまでも生き続ける」という意味ではありません。それは「永遠である神様と共にある歩み」「神様から離れない歩み」のことです。離れないために大切なのは手を繋ぐ事です。でも、彼の手は最初から親から与えられた物でいっぱいで、それを離さないようにして来たのです。それでイエスは言います「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(21節)。「売り払って」とあります。(自分の所有する)物のままで渡さないために、お金にする必要があるのです。

彼は「金持ちの青年」、すべてを親からもらった若者でした。元々自分の所有などないのです。それを自分の所有のように抱えるからおかしなことになるのです。でも、私達も同じようなものです。神様からすべてを与えられているのに、自分で手に入れたように思うからおかしな事になるのです。自分の所有ではなく神様に与えられた物、預かった物として神様に委ねつつ、尋ねつつ用いるのです。(牧師:田中伊策)

「委ねる」という事 マタイによる福音書19章16-22節