「信じ方が生き方となる」 マタイ7:1-6

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」(1節)。この言葉は逆に読むと「人を裁くと人からも裁かれる」となり、因果応報的な色の濃い言葉になります。確かに人生においてそのような事はよくあります。けれども、ここでは単に人間同士の関わりについて言われているのではありません。もっと根っこの事柄です。

「攻撃は最大の防御」と言います。スポーツでも攻撃をしている間は相手は防戦一方となり、自分は攻められる事がないので守っているのと同じです。「攻撃することで自分を守っている」のです。「人を裁く」というのは、これに似ているのかもしれません。本当は自分が裁かれるのが怖い、自分の弱さや足りなさ、自分の罪を指摘されるのが怖い。だから人を攻撃する、人を裁く。そうやって実は自分を守っているのではないでしょうか。そして、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目に中にある丸太に気付かないのか」(3節)とあるように、人はそれを無意識で行っていることが多いのです。

「丸太」を「電信柱」に言い換えてみましょう。電信柱が目の中に入る事自体あり得ないのですが、もう一つ、それを自分で取るというのもあり得ない、無理な事です。つまり、自分の過ちを自分で償う、自分の小ささを自分で補う事自体出来ないのだ、とも言えます。自分の小ささも弱さも過ちも赦してもらわなくては生きられないのが人間なのです。そして神はその人間を愛し、その罪を赦し、取り除かれるためにイエス様を与えられました。赦されるしかない、と思えた時、人はもう裁く事は出来なくなります。

私達が人を裁く時、自分の心からイエス様を遠ざけ、自分を守ろうとしているのです。私達が赦す時、自分の心にイエス様を迎え、神様の御手に包まれています。人は信じ方が生き方となり、生き方が信じ方となってゆくのです。 (牧師:田中伊策)

「信じ方が生き方となる」 マタイによる福音書7章1-6節