「共にあって自由」 ガラテヤ5:13-15

言葉の意味を知ろうとするときに、その反対の言葉を思い浮かべるとイメージがつかめてくることがよくあります。例えば「平和」。「平和の反対は?」と聞かれて真っ先に思い浮かべるのは「戦争」でしょう。でも「不安」とか「空腹」とか「孤独」とかいろいろ思い浮かべる事も出来ます。そこから平和をもう一度考えると「安心」とか「満腹」「食べる物に困らない」とか「一緒」とか平和の意味も広がって来るし、イメージもしやすくなります。

では「自由」の反対は何でしょう?「束縛」とか「支配」、辞書には他に「統制」という言葉が出てきました。やはり自由というのは「束縛されない」という意味が強いようです。しかし、それだけではありません。この「自由」という言葉がその中身を既に表しています。「自らを由(よし)とする」(「由」とは「理由」とか「方法」とか「拠り所」)、つまり「他の人や物に流されたり支配されたりせずに自分を拠り所とする」という意味です(自由という言葉は福沢諭吉が英語のfreeを訳す時に自分で作った言葉だと言われています)。

けれども、その意味から聖書の中にある「自由」という言葉を考えると迷ってしまいます。何故なら聖書には次のようにあるからです。「兄弟たち、あなたがたは自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とはせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(13節)。「仕える」という言葉は原文から直訳すると「奴隷の立場となる」という意味です。自由なのに奴隷となる?変ですねぇ。

ここで一番大切なのは何から解放されるか、ということかもしれません。物でしょうか?他の人でしょうか?いえ、むしろ自分なのではないでしょうか?この聖書の言葉には「肉」と書かれています。この肉とは、豚肉とか鶏肉ということではなくて、自分の知識、自分の努力、自分の肉体、それら含めて自分自身を「肉」としているのです。つまり「自らを由とする」時にこそ、最も自由を失っている状態なのです。自分の正しさや判断により頼むのは愚かな事です。神は私達と共に生きるためにイエス・キリストを与えて下さいました。そして、私達にもまた「共に生きる」ように「互いに仕える」ようにと促されます。そこでこそ私達は本当の意味で生きることが出来るからです。一人では生きられない人間が「自分を由とする」なんて愚かな事です。本当の自由は自分から解放される事です。「自分」の中にではなく「共に」の中に自由はあるのです。 (牧師:田中伊策)

「共にあって自由」 ガラテヤの信徒への手紙5章13-15節