「噛み合わないパンの話」マルコ8:11-13

「噛み合わないパンの話」マルコ8:11-13

昨日(10/1)、熊本の地震で被災された方々の新しい生活の場である仮設住宅に食器をお渡しに行きました。避難所暮らしの時は紙やプラスチックの容器や食器で食事をされていたので、新しい生活に入るにあたって自分の陶器の食器で食べることで少しでも普段の営み、日常を取り戻して頂けたらと思います。陶器市のように並べた食器の中から、皆さん自由に手に取って好きな物を選んでかごや袋にいれて喜んで帰ってゆかれました。一人のおばあちゃんが熱心に茶碗を選んでおられました。「どんなの食器を探しているんですか?」と一緒にボランティアに行った方が声を掛けると「かわいいの」とのこと。そして言葉を続けられました。「この仮設に私一人で住むんだけど、ほら、後ろにいる孫達がここに来た時に一緒にご飯が食べられるように」。後ろには二人の小さな女の子。少ししてみるとその子たちも一緒に探し出しました。器を選ぶ、それは自分のこれからの生活を思い描く事でもあるんだな、と思いました。このおばあちゃんは、このお孫さんと一緒に食べることが出来るのを楽しみにしているんだなと思いました。お孫さんもそうしたいと思ったようです。食べるということは生きるということです。だから何を食べるかということはとても大切です。でも、同時に誰と食べるか、ということも大切です。それは誰と生きるかということだからです。そして人は一人では生きられないからです。
私達は月に一度、主の晩餐でパンと葡萄ジュースを頂きます。これはイエス様の歩みや言葉を思い起こし、そしてイエス様の十字架を思う事でもあります。そのことを思い浮かべながら食べます。この出来事をとても大切な事柄として記念として私達は行います。同時にイエス様の事だけ、つまり何を食べるか、だけでなく誰と食べるかということも私達にとって大切です。そうでなかったら教会で一緒に食べる意味ないからです。むしろこっちの方が大切かもしれません。何故ならケンカしながら食べたら、後から「何食べたっけ?」みたいになるからです。誰と食べているか、ここに誰がいて欲しいか。クリスチャンも一人では生きられないのです。「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」(ガラテヤ5:15)(牧師 田中伊策)

マルコによる福音書8章11-13節