「新しい歩みへの招き」マルコ8:22-26

「一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。」(22節)。この人々の行為は愛にあふれた行為です。目が見えない人に関わるということは、当時の考え方である「目が見えないのは罪のせい。神様の罰だ」という考え方に真っ向から反対する行為です。下手をすると、周りの人まで罪びと扱いです。それはまるで、いじめられている人の仲間になったら、今度はその人がいじめの対象になるようなものです。でも、彼らはこの盲人をイエスのところに連れてきた。そして触って欲しいと願うのです。


「触れる」つまり、その人に手を置く、という行為は「神様の祝福があるように」と祈って欲しい、という意味があります。光の園の誕生会でいつも私はマルコによる福音書10章13節からの言葉を読みます。そこにはこう書かれています。「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」人々もまた彼に神様の祝福があるように祈って欲しい、として連れてきたのです。「病気やハンディキャップは神様の罰だ」という社会のルールや常識に真っ向から立ち向かい、イエスに「罰ではなく祝福を」と願う人々の気持ちがここにあります。


しかし、それだけではありません。目の見えない人にとって触れられるということは、ほかの人との距離がゼロであることを感じられる事柄だからです。耳で声や音を聞いて距離や方向は感じられます。でも直接触られること以上にその近さを感じる事の出来る事柄はありません。「神様は共におられるよ、あなたのすぐそばに」触れるということはその距離の近さでもあるのです。(牧師 田中伊策)

「新しい歩みへの招き」マルコによる福音書8章22-26節