「今、私にできること」マルコ8:11-13

「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」(11節)

ファリサイ派の人たちは、無理難題を吹っ掛けようとしてやってきました。それが「試す」という言葉です。「試す」という言葉は「試験をする」という意味です。試験をするというのは先生が生徒をテストするということ、「お前が分かっているかどうか私が調べる」ということです。問題に答えられたら合格、答えられなかった失格、ダメということになります。偉い人は、〇か×をつけるだけです。イエス様にはそれがとても残念でした。

悲しんでいる人たちが笑顔になった、それはとても嬉しいことです。お友達が泣いていたら、「どうしたの?」っていうでしょ?そして元気になって欲しいと思うでしょ?そんな気持ちが大事なのに、この人たちは、お友達の事ではなくて、自分の事ばかり考えていたからです。自分が人気者になりたい、ってそればかり。どうしたら自分のところに人が集まってくるか、ばかり考えていたからです。

でも、イエス様は歩き回って、悲しんでいる人のところに行って話を聞いて「そうか、それは悲しいね」と一緒に泣き、困っている人のところに行って話を聞いて「そうか、それは困ったね。一緒にお祈りしようか」と祈ったり、病気の人のところに行って「ここかなぁ、痛いのは」ってさすったり、そうして、その人たちが「ああ、私のことなんて誰もわかってくれないと思っていたのに、この人は私の悲しみも、つらい気持ちも、痛い場所も分かってくれる。私はひとりぼっちじゃない」、そう思って「よし、もういちど頑張ってみよう」とか「なんだか、元気が出てきた」とか。

状況は何も変わっていないのに、悲しんでいる人の心が元気になったり頑張ろうと思ったり、そういう事が起きたらすごいでしょ。それこそが「奇跡」です。そして、そのためにイエス様はあちらにゆき、こちらに行き、一生懸命いろんな人と出会おうとされたのです。「また舟に乗って向こう岸へ行かれた」(13節)。新しく出会いに行かれたのです。私たちもついてゆきましょう。(牧師 田中伊策)

「今、私にできること」マルコによる福音書8章11-13節