「休日、突然の来客に慌てる」マタイ2:1-3

東の国から三人の占星術の学者がイスラエルの首都エルサレムにやってきます。彼らは「見慣れない星を見つけ、調べたらイスラエルに新しい王様が生まれたと出たので拝みにやって来た」と言っています。それに対して王や町の人の反応について聖書は「これを聞いてヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(3節)と記しています。

ヘロデ王(現在の王様)が不安になるというのはよく分かります。「自分はどうなってしまうのか。王でなくなってしまうのか!嫌だ、俺は王様のままでいたい」って思うでしょう。そして、信仰っていうのはそういう事です。今まで「自分で考えて」「自分で決めて」「自分で責任を取って」と人生の真ん中に自分を置いていた、つまり自分の人生の王様に自分を据えていたけれども、神様を信じるってことは「神様に信頼し」「神様に委ね」「神様に責任を取ってもらう」事であり、新しい王様を迎えるということなのです。

勿論、「自分で考え」「自分で行動する」という事には変わりありません。神様を信じてお祈りしているだけでテストで100点取れるなんてことはないのですから。大切なのは、神様の示す道、イエス様が進まれた道の中にこそ私たちの人生の「幸い」があるって信じて進む事です。それが信じる事なのです。

でも、それがなかなか難しいし怖い、不安になって当然です。さて、ヘロデ王については分かりましたが、町の人まで不安を抱くってどういう事でしょう。これは譬えるならこういう事です。休日ということで家でラフな格好でくつろいで(さらに昼間っからビールなど飲んで)いたら突然「ピンポ~ン!(とかブー!とか)」と呼び鈴が鳴ったら「えっ?何?誰?なんで?」って慌てますよね。

宅配便とかならまだいいですけど、お客さんとなったら(来るんだったら連絡くらい頂戴よ。片付けだってしておいたのに)って思いますよね。そういうことです。「来るんだったら連絡くらい頂戴よ」というのは、普段着からよそ行きの服に着替えるということ、言い換えると見られても構わない自分になる、ということです。

ところがその準備もしていない時にお客さんが来るから慌てるのです。これも同じで信仰というのはそういう自分を神様に隠さない、という事でもあります。でも、すべてを知って下さり、かつ愛して(赦して)下さっているのが神様です。このよそ行きでない普段着の自分、本当の自分に神様をお迎えする、つまり客間でなく自分の部屋にイエス様をお招きする事が信じるということです。

ただ、それが難しいから「不安を抱く」のだけれど、それが出来たら人生豊かになるのだけどなぁ。(牧師:田中伊策)

「休日、突然の来客に慌てる」マタイによる福音書2章1-3節