「赦されて救い」マタイ18:21-35

聖書の初めには創世記というところがあります。神様が世を創られた、すべてを違う物としてすべて良いものとして、カラフルな世界を作られた。そんな中で人も創られます。アダムとイブです。

二人ははじめ、神様の創られた世界の中で喜んで生きていたのですが、蛇によって知恵をつけられてしまいます。これ自体は何も悪い事ではありません。知恵は決して罪ではありません。問題はこの後、人間はその知恵によって「自分が裸であることを知り自分の姿を無花果の葉で隠した」と書かれています。人間という物は不完全なものです。でも、それが当たり前だったら何も恥ずかしがることはありません。でも人間は完全を求めるんですよね。そして、彼らの目の前には彼らを愛して創られた完全なる神がいる。それで、自分が不完全な自分に気づいて恥ずかしくなって隠れた、って言うのです。

つまり、聖書が神様の愛について記せば記すほど、人は自分の不完全さを知る訳でもあります。聖書は神を語っているけれど、同時に私を映し出す鏡なのです。神様の愛の前に私たちは自分を知らされる、「私って駄目だなぁ」って。

でもね、私たちは決して駄目じゃない、不完全ではあるけれど駄目じゃない。大事なのはその不完全さを隠さない事です。それを隠してなかったことにしたり、比較して優越感や劣等感を感じたりする、そういうところに私たちの罪が潜んでいるのです。

本当は寂しいのに、本当は助けて欲しいのに。でも隠しているから救いようがない。自分で自分を守っているから入る隙間がない。そんな状態こそが罪なのです。「自己責任」なんて助けたくない人の言い訳です。「一人の方が楽」なんて自分を包み隠す言い訳です。私たちは不完全、自分で自分を救えない。だから助けられて生きるのです      (牧師:田中伊策)

「赦されて救い」マタイによる福音書18章21-35節