「礼拝の始まり」ヨハネ2:13-25

「宮清め」と呼ばれるこの個所にはイエス様の乱暴とも言える言動が記されています。エルサレムの神殿の境内で「羊や牛をすべて境内から追い出し」「両替人の金をまき散らし」「台を倒し」「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言われています。これでは物やお金を捧げる事が出来ません。そして捧げ物こそ神殿礼拝の中心です。つまり、イエス様は神殿礼拝を否定するのです。

旧約聖書のイザヤ書66章1節には「主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに/わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか」と記されています。これは私たちの信じる神は人間の作った神殿に収まるような神ではない、ということです。それは教会も同じです。礼拝堂に神様がいるのではないのです。ここには礼拝をする私達がいるのです。私達と共におられる神をここで他者と一緒に礼拝するのです。神様はどこにでもおられます。それなのに彼らは、神殿礼拝は神殿にこそ神様がいると勘違いしています。儀式に固執し、形式に縛られた礼拝をすることは、神を神殿に縛り付けることでもあります。

イエス様は、犠牲の捧げ物を廃し、儀式的な礼拝を退けた時になお残るもの、つまり礼拝の本質であり、中核をなすものは何か?を問うておられるのです。それは「私を捧げる」ということです。それこそが礼拝の中心です。この世に生きる私たちは悩みや悲しみ、様々なしがらみの中で生きています。しかし、それらが重くのしかかろうとも、変わらずに共におられます。目まぐるしく変わる世の中にあって神だけは変わらない。その廃る事のない神の愛に生きる時に、私達は世にあって自由を得ます。その自由こそ救いです。その救いの喜びを共におられる神に捧げる、そこから礼拝は始まるのです。(牧師:田中伊策)

「礼拝の始まり」ヨハネによる福音書2章13-25節