「幼子を越えて」 コリントⅠ 13:8-13

聖書で「幼子」というとイエス様の「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである(マルコ10:14)」の言葉を思い起こします。ですから「幼子」=「良い存在」というイメージを持ちます。そこから「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを捨てた(11節)」の言葉も「大人になった私は、いつの間にか子どもの頃の純粋さを失ってしまったよ」というように理解しがちです。

けれども、この「幼子」という言葉とイエス様が使われた「子供」という言葉とは全く違う意味です。イエス様が語られた「子供」という言葉は「パイディオン」という言葉で、親から守られるべき存在、愛を受ける権利を持つ存在としての子どもです。それに対して「幼子」という言葉は「ネーピオス」という言葉が使われています。このネーピオスという言葉は「ネー」(否定)という言葉と「エポス」(言葉)という言葉の合成語と言われています。「未だ言葉を持たない存在」という意味です。それは「話せない」とか「語彙が少ない」というよりもむしろ「経験や体験の少ない」という意味だと思います。何故なら言葉は経験を通して生きたものとなるからです。

私達は生きる中で様々な経験をします。喜びも悲しみも、成功も失敗も経験し、体験や経験から言葉の意味を理解する者(大人・成人)となるのです。そして言葉を知った者はもう知らなかった時には戻れません。それでも希望を持ち続けるのが幼子を越えた信仰です。「鏡におぼろに映ったものを見る(12節)」(昔の鏡はぼんやりとしか映らなかった)、それは光の見えない現実、先の見えない未来です。しかしそれでもなお「顔と顔とを合わせて見る」日を待ち望むのです。

きっと大人に一番必要な言葉(エポス)は「現実の厳しさ」ではなく「目に見えるものが全てではない」です。信仰も希望も愛も目に見えないのですから。幼子を越えて、それでもなお子供のように神の国を受け入れる者でありたいと思います。(牧師:田中伊策)

「幼子を越えて」 コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章8-13節