「恐れからの解放」 マルコ1:2-11

幼稚園の保護者に対してこんなことを言う時があります。子どもが間違った時に「もう知りません」とか「もう買ってあげませんからね」みたいな言い方をしないようにしましょう、って。「もう知りません」と言われたら子どもは「私を見放してくれちゃ困る」と思って、怒られるような事はしないようになるでしょう。「もう買ってあげません」と言われたら買って欲しいから良い子になるでしょう。でも、それじゃあ本質は伝わらないのです。どうして悪いのか、それをしたらどうなるのか、そんなことは子どもには関係ないのです。でも、私達が伝えなくてはならないのはその部分です。お母さんに怒られないようにする事ではなく、なぜいけないのか、どうしたら良いのか、ということです。

バプテスマのヨハネの言った事、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(マタイ3:10)それはお母さんが子どもに対して「もう知りませんからね」というようなものです。「怖いからごめんなさいって言おう」って。そんな思いでヨハネからバプテスマ(洗礼)を受ける人が続出します。

それに対してイエス様がバプテスマを受けられた時、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と声があったと書かれています。この言葉は別の訳では「汝はわが愛する子、われ汝を愛する」そしてギリシア語から直訳すると「あなたは私の愛される子である。あなたで私は喜びを得た」と書かれていました。

光の園で年に4回誕生会を行うのですが、その時に毎回お母さんやお父さんにそれぞれ、短くお話ししてもらうように主任が企画します。お子さんが生まれた時の話をしてもらう時があるのですが、その時にお母さんたちが思い出して涙を流されることが結構あります。その涙は「生まれて来てくれてありがとう」という涙です。「あなたで私は喜びを得た」これです。

今日の聖書の言葉「私の心に適う者」というと私の思うように、願うように歩む者、というように聞こえますが、これは存在そのものを喜ぶ言葉です。「あなたは私の愛する子、あなたの存在が嬉しいんだ」って。これがイエス様のバプテスマであり、私達のバプテスマです。私達は「あなたのことなんて知りません」と言われることが怖いから「よい子になります。バプテスマを受けます」というのではなくて、まるでお母さんが「生まれて来てくれてありがとう」と涙を流すように、神様が「あなたは私の愛する子。あなたによって私は喜びを得た」と私に語ってくれることが嬉しくて、この方と共にある歩みをしてゆこう、とバプテスマを受け、従うのです。 (牧師:田中伊策)

「恐れからの解放」 マルコによる福音書1章2-11節