「それでも生きる」 マルコによる福音書2:18-22

「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(21-22節)

昔の人が作った葡萄酒ですから、きっと作っている最中も発酵が進み、袋はパンパンに膨らんで行ったのでしょう。それは私たち自身の姿です。イエス様の言葉という新しい葡萄酒を私達の心に入れても、私達一人一人の心や体は変わらない。一人では変わらない。信じたら前向きに生きる事が出来る、という訳じゃない。信じたら罪を犯さなくなるんじゃない。正しくあろうと思いながらも、その一歩先で罪を犯す。希望を持って進もうとして進み出した先で悲しみ嘆く。「はぁ」とため息。心にはそんなため息が増えて行く。それでも自分の頑張りで生きようとしたら、その心もその身体も張り裂けてゆくことになります。バーンアウトです。「ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。」

イエス様は「一緒に食べよう」「一緒に生きよう」と言われます。自分で頑張るのではなく、このイエス様と共に生きるという歩みこそが新しい革袋です。悲しみもため息も一緒に抱えて下さる主がおられるのです。

イエスを信じる者は、自分で自分を救う、自分で自分を守る事を止めるという生き方を始める者なのです。「その悲しみも、その痛みもイエス様は知っている。一緒に傷んで下さっている。ここからまた一緒に生きよう。それでも生きよう」と自らに、そして他者に促す者なのです。共におられる主に生かされ、私達もまたそれぞれの生活の中で伴う歩みを通して生かす歩みをしてゆきたいと思います。それでも生きて参りましょう。 (牧師:田中伊策)

「それでも生きる」 マルコによる福音書2章18-22節