「この言葉を支えにして進め」マルコ7:24-30

この聖書の個所の前、7章の1~23節でイエスはゲネサレトという場所におりましたが、そこにエルサレムから律法の専門家たちがやってきて、イエスや弟子たちの様子に文句を言っています。ゲネサレトという片田舎に中央の学者さんがやってきたというのは、「何やら危険思想の持ち主が活動しているらしい」ということで調べに来たのです。

それはつまり国家的にイエスは危険人物だと判断するような時期に来ていたということです。それで、イエス様はがっかりするやら疲れるやらで、この国から逃れようか、ということでイスラエルの国を出て北西のティルスというところに来たというのです。一人になりたかった。しかし、見つかってしまいます。

やってきたのはギリシア人の女性。彼女は「娘から悪霊を追い出してくださいと頼」みます。しかしイエスは次のように答えたと書かれています、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」「子供たち」というのは同胞イスラエル人のことです。そして「小犬」というのは異邦人の事です。

つまりこういう事です、「私はイスラエルの人々を愛し、慰めを語り、癒し、救わなくてはならないのだ。イスラエルの人々に向けて行わなければならない事柄を、異邦人に行う訳にはいかない」というのです。このままだと、とても感じの悪いイエス様ということになりますが、この時のイエス様の状況を考えると、少し違った意味に考えることが出来ます。

イエス様はこの時、がっかりしている訳です。福音が伝わらない、それどころか危ない人物としてブラックリストに載るような状況です。そんな状況に打ちひしがれたイエスは、こんな風に女性に語ったのではないでしょうか「イスラエルの民ですら救えていない。私の言葉は踏みつけられている。そんな状況の中で異邦人のあなたがたを癒すことなんて今の俺には考えられないよ」って。

それでもこの女性は言います、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」彼女は言うのです、「でも、受け取られていないあなたの言葉を私たちが拾っても誰も文句は言わないんじゃないでしょうか?その踏みつけられたあなたの言葉は私にとって命の言葉です。捨てられても、踏みつけられても、あなたの言葉は私を生かす命の糧です。娘の命を救う光です」って。

その言葉を聞いてイエスは言います「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。」(直訳:この言葉の故に、行きなさい)。娘のために一生懸命になる女性の信仰にイエスも呼応して希望の言葉を語ります。この世の不条理に一緒に痛み座り込む私たちと一緒に主は痛み、そして一緒に立ち上がるのです。  (牧師:田中伊策)

「この言葉を支えにして進め」マルコによる福音書7章24-30節