「生きているからお腹は減るのです」マルコ8:1-10節

マルコ8章で、イエスは多くの群衆を前にして弟子達に「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」(2・3節)と言います。それに対して弟子たちは「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」(4節)と当たり前な返事をします。けれど、少し前の6章では同じ状況の中でイエスは五つのパンと二匹の魚を祈って弟子たちに分けるように言い、それを弟子達が分けると、そこにいた多くの群衆が満腹した、ということが書かれています。
例えば、何人かで車でドライブに行っていたら、途中で車が故障した。すると友人の佐藤君が「僕に任せて」といって修理してくれたのでまたドライブを続けることが出来た、とします。それから一か月後、また同じメンバーでドライブに行ったら、また同じ個所が故障した。そうしたら「佐藤君、またお願いできるかな?」って真っ先に言う。当たり前の話です。同じように弟子たちは前回の事を思い出して「イエス様、お願いします」と言ってよいはずなのにそうは言わなかったのです。イエス様が目の前にいるのに、弟子達は常識に流されてしまった、それもまた当たり前のことです。何故なら私たちは人間ですから。
神様を信じたから不安がなくなるとか、すべての事を信仰的に考えられるとか、なかなかなれないものです。そしてそんな不信仰な姿にがっかりしてしまう。けれども、それが人間なのです。満腹してもまたおなかが減るように、信じていても疑い、常識に頼ってしまう、それが人なのです。
この出来事の中でイエスは「パンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き」(6節)弟子達に分けるように言います。再びイエスは同じことをされます。そして、再びみんなで満腹します。忘れてしまう弟子たちにイエスはこの分かち合う恵みを思い出させてくれます
私達も何度でも思い出さなくてはなりません。毎月行う主の晩餐でも「パンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き」という言葉が読まれます。忘れてしまう私達、世の常識、世の当たり前に絡み取られてしまう私たちに、すべての人に与えられている神の恵みの当たり前を思い起こすためにパンを頂きます。そしてその神の恵みの当たり前を生き、そして神の愛の当たり前を伝えるために十字架にかかられたイエスを思い起こすために杯を頂くのです。
(牧師 田中伊策)

「生きているからお腹は減るのです」マルコによる福音書8章1-10節