「天に宝を積みなさい」マタイ6:19-24

今の世の中は不安で満ちています。疑いで満ちています。怒りで満ちています。それは二つの理由から起こっているのだと思います。一つは、神や他者に委ねることをせず自分で握りしめようとしているからです。自分で何とかしようと頑張るあまり、他者との関係を閉ざしてしまうのです。その隔たりが争いをもたらします。

本当に大切にしなければならないなら、自分で何とかしようと思わない、それが出来る存在に委ねる事が大切なのです。もう一つは、神様に委ねられない物を大切にしようとするからです。富とか知識とか名誉とか、そういうものを必死に守っているために、他の人を見下したり、自分が正しいと言い張ったり、人のものまで奪って蓄えようとしたり。

そう考えると、「天に宝を積みなさい」ということは、「神様に預けられるもの、神様に委ねられるもの、天に積むことが出来るものをこそ宝にしなさい」と言い換えることが出来ます。そして、その視点がなくなる時の事について22-23節で「体のともし火は目である。目が澄んでいればあなたの全身は明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だからあなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」とイエスは語っています。何を宝とするか、信仰の目で吟味しなさい、とイエスは言います。

自分で握りしめる事をやめなさい。無力になって神にゆだねなさい。そして委ねられるものをこそあなたの宝としなさい。それが天に宝を積むということだ、そうイエスは語ります。そしてそれこそがイエスの歩んだ道でもあります。人々を愛し、弟子たちを愛して、十字架にかかって死なれたイエスの姿は、大切な物のために無力になり委ねた姿です。自分を無力にしてまでイエスが宝にしようとしたのは人々であり、弟子達であり、そして私たちです。それは神様にとって私たち一人一人は宝だからです。(牧師 田中伊策)

「天に宝を積みなさい」マタイによる福音書6章19-24節