「隣人は隔たりを越える」 ルカ10:36-37

「隣人は隔たりを越える」 ルカによる福音書10章36-37節

キリスト教はユダヤ教の土壌の中から生まれたものです。生まれたとは言っても、全く新しい宗教が誕生したのではなく、ユダヤ教で語られていた事柄の本質が明らかにされたのがキリスト教なのだろうと思います。

ユダヤ教は基本的にイスラエル人による単一民族宗教です。そしてイスラエルは典型的な政教一致の国です。ユダヤ人はユダヤ教を信じるのが当たり前。そして、救われるのも原則ユダヤ人(ユダヤ教徒)です。ですから「宗教心が強い」=「自国愛が強い」という事になります。ですからユダヤ教徒にとって「隣人とは誰か」という問いの答えは「自国の人」です。

しかし、イエスはその「隣人とは誰か?」という律法の専門家の問いに対して一つのたとえ話をするのです。ユダヤ人が旅をしていたら盗賊に襲われます。身ぐるみを剥がされ、血を流して倒れています。そこに祭司が通りますが通り過ぎます。次に同じユダヤ人の宗教指導者的立場の人が通りますが、その人もまた通り過ぎます。そして次に通ったのは敵対する国、ユダヤ人とは互いにいがみあっているサマリヤ人。ところが彼はこのユダヤ人を介抱し、宿屋に連れて行き、そして宿代まで払って去ってゆくのです。イエスは言います、「誰が襲われた人の隣人になったか?」。律法の専門家は「その人を助けた人です」と言うしかありません。イエスは言います、「行ってあなたも同じようにしなさい」。

人間が過ちを犯すのですから国だって当然過ちを犯します。ところが「ユダヤ教の戒め」は「イスラエル国の戒め」という政教一致は神と国、神と人とを一致させてしまい、人の罪、国の罪を消し飛ばしてしまいます。それが「私達の国は正しいのだ。私達のしていることは神の御心なのだ。国民を守れ!敵をやっつけろ!」という発想になるのです。

本当はそこにこそ人の罪があり、愚かさがあるのに。 「行ってあなたも同じようにしなさい」。「その国という隔たりを高くして敵と味方を分ける事こそあなたがたの罪だ。その隔たりを越えて愛する歩みに進み出しなさい。それが隣人だ。それが神の望まれる事だ」とイエスは言うのです。敵は私が隔たりを作る中で生まれるのです。 (牧師:田中伊策)