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「新しい命への道」ローマ6:3-4

聖書にはこうあります、同じローマの信徒への手紙10章9-10節「(9節)口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われるからです。(10節)実に人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。」。この9節と10節にはどちらも「言葉で言い表す」という事と「心で信じる」という事が書かれていますが、9節と10節では順序が逆転しています。9節では「口で言い表す」とありその後に「心で信じて」とありますが、10節では「心で信じて」とあってその後に「口で言い表す」となっています。

どちらが先?どちらが大事?と考えてしまします。しかしむしろこれは、どちらが先とも言えない、どちらが大事と言えない、と言っているのです。「心で信じる」ことと「口で言い表す」ということはつながっている、表裏の関係だ、ということです。神様を信じる、ということは非常に個人的な事のように思えますが、実は信じるのは共に信仰をもって行くということなのです。お互いの信仰を大切にしあっていく、共に生きていく事が信仰です。私達は決して一人で神様を信じてゆくのではない、一人で進んでいくことは出来ない、ということでもあるのです。

何故なら、個人的な理解で進んで行けば、私達は自分の信仰が正しい、という間違いにたどり着いてしまうからです。それは言い換えると自分を神とするということです。しかし、それになかなか気づけない。それは、私達は鏡がない限り、自分の顔を見る事が出来ない事に似ています。でも、そこに誰かがいてくれたら、私が今どんな顔であるかを教えてもらえます。私の信仰、あなたの信仰を分かち合って共に生きて行くのが教会なのです。ですから、神様を信じるということは、口で公に告白してゆく、ということなのです。(牧師:田中伊策)

「新しい命への道」ローマの信徒への手紙6章3-4節

「希望と平和の源流」 ローマ15:33

ローマの信徒への手紙は、いろいろな国でイエス・キリストを伝えていたパウロが、まだ行ったことのないローマの教会に対してあいさつと自己紹介をする、というような内容です。自己紹介と言ってもその内容は、自分の経歴とか趣味とか特技とか家族構成という事ではなく「私はこんなふうにイエス様を信じています」と自分の信仰を伝えようとしています。パウロは「ローマの教会に行った時にはこんな自分を受け入れて欲しい」と熱く自分の信仰を伝えます。ローマの信徒への手紙はパウロの信仰理解が色濃く出ている手紙です。

この熱く自分の信仰を語るパウロの心情の中には伝道への情熱があったと思いますが、それだけでなく、心配もあったのだと思います。いろんな国に行ってイエス・キリストを伝えたパウロでさえも「自分は受け入れられるだろうか」という心配があったのだと思うのです。それはローマの信徒への手紙の中にやたら「ユダヤ人」と「異邦人」という事柄が出て来る事からも分かります。律法(旧約聖書)を守り続けてきたユダヤ人が救われ、クリスチャンと仲よくすることをパウロは願っています。そのパウロの気持ちに嘘はないのですが、そこには自分とローマの教会の人たちの関係と重ねていたのではないか、と思うのです。

人と人との関係は難しい、クリスチャン同士でも難しい。そんな中でパウロは最後にこんな言葉を伝えています。15章の5節「忍耐と慰めの源である神」、13節「希望の源である神」、そして33節「平和の源である神」と語っています。「源」辿るべき水源、戻るべき原点は相手でも自分でもなく神なのだと語るのです。初めからずっと仲が良い関係なんてありません。また違う者同士だからお互い我慢もしなければなりません。相手の姿や言動にがっかりやイライラもするでしょう。願っている結果、思い描く相手の姿、理想の自分、と現実との隔たりに絶望しそうになります。しかし、そのただ中に、そして傍らに神はおられます。決して私達を諦めず、私達に絶望せず、私達に無関心にならない神、そこに私達の歩みの源を置くのです。願っている通りにならない絶望的な現実のただ中、主がそこにおられることこそが希望なのです。 (牧師:田中伊策)

「希望と平和の源流」 ローマの信徒への手紙15章33節

「おめでたい人々」 ローマ10:5-13

「おめでたい人々」 ローマの信徒への手紙10章5-13節

「信仰によって義とされる」と言う言葉は聖書の中に何度か出て来る言葉です。「義」という言葉には「正しい」という意味があります。ですから「義とされる」というのは「お前は正しい、と認められる」ことです。つまり神様から「それでよろしい!」と太鼓判を押される、それが聖書の中に出て来る「義とされる」と言う言葉の意味です。

ではどういう時に正しいと認められるのでしょうか?たくさん聖書の勉強をして神様の事がよく分かった!という時でしょうか。たくさん修行や善行を積んだ時でしょうか。それともすべての欲を捨てて、ひたすら黙想したその先で認められるのでしょうか。全部違います。神様が共におられる、と信じる時です。

神様を信じる時に「それでよろしい!」と神様に太鼓判を押されて安心する。それが嬉しいと言葉に表す。その時にあなたは紛れもなく救われている、それが「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」という言葉の意味であり、それが私たちの信仰です。 信じるだけで良いとは何とも太っ腹な神様です。

しかし信じる方も負けてはいません。信じるだけで良いという言葉を真に受けて、それを信じて喜ぶとはクリスチャンとはなんとおめでたい人種でしょうか。でも、おめでたくて良いのです。その信じると言う事の中にこそ希望があるからです。お互いに信じ合う事の出来ない関係には希望がありません。相手を信じるだけでなく、相手から信じてもらわなくては不確かで破れの多い私には生きる道がないからです。

時には他者から、そして自分自身からも裏切られる事があるけれど、それでも赦し、赦される中で信じながら生きて行く。信じて生きる中で神様から「それで良い!」と言われる、それは同時に「そこに人の生きる道がある」というメッセージでもあります。おめでたい人々であり続けましょう。 (牧師:田中伊策)