タグ別アーカイブ: マタイ

「愛するために生まれた」 ヨハネ3:3, ヨハネⅠ 4:7-9

世の中はいつも、割に合わない事、理に適わない事が起こります。世の中と大きな事を言わなくても、そして遠くまで見なくても「神様を信じているのにどうして?」「神様がいるのなら何故?」と思えるような事はきっと一度や二度では無かったでしょう。それに対して周りの人はこの「割に合わない出来事」に辻褄を合わせるために「神様の罰(ばち)が当たった」とか「神様に裁かれた」と言います。

「なんか知らんけれど、この人(誰か)が悪い事をしたから」という事で自分を安心させようとするのです。しかし、よく考えますと結局、都合の悪い事は神様のせいにしてしまおう、という事です。分からんことは神様のせい、困ったことも神様のせい。そしてそのように読める箇所も聖書にはたくさんあります。そして実際、人々はそういう困った事が起こった人を「神様から罰を受けた人」とレッテルを張り、遠ざけて、隔離しておりました。「私は悪くない。この人が悪いんだ。そして神様が悪いんだ…」。人間は自分の正しさを守るために神様だって悪に出来るのです。

けれども、イエス様は言われます、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)。「父」とは神様の事です。『神様は罰なんて与えないよ。私達は愛されている』というのです。その「神様の愛」と比べたら「自分の正しさ」がどれだけちっぽけなものかが分かります。そしてその神様の愛の大きさをイエス様は示されました。

「この人のせい、神様のせい」という人々に対し「じゃあ、私のせいにしなさい」と引き受けられたのです。そこから「私は悪くない。私のせいじゃない」という「罪」の大きさが現れてきます。『キリスト教はすぐに、罪人、罪人、って言うけど、私は法に触れることなんてしていません。自虐的だ。」と言う言葉を聞くけれど、誰かのせいにするという事、自分を正しいとすることが罪なのです。

そして、イエス様は誰かのせいにしなかった。神がそうであるように愛された。それは私達人間の進むべき道を示しています。神様は私達を愛して下さっている。だから愛するのです。「この人のせい、神様のせい」にして自分を守らないで大切にしたらいいのです。愛されて生まれた者として生きるのです。イエス・キリストがそうであるように、私達も愛するために生まれたのです。 (牧師:田中伊策)

愛するために生まれた ヨハネによる福音書 3章3節 ヨハネの手紙Ⅰ 4章7-9節

「道になられる救い主」 ヨハネ14:6

マタイによる福音書はイエス様の誕生の出来事において、占星術の学者たちが来た事を伝えています(2:1~12)。彼らは東の国からやって来ました。東にはかつてイスラエルを支配したアッシリアやバビロニアやペルシアといった巨大な国がありました。戦いに勝って他の国を支配して大きくなり、戦いに敗れて飲み込まれてゆく。そんな事を繰り返していましたが、この時代は西にあるローマ帝国のためにすっかり落ちぶれています。「東の国」にはそんな意味があります。

彼らは新しい王を求めます。イスラエルに新しい王が出現する、との情報を得て、彼らはイスラエルに行きます。行った先は首都エルサレムの王の宮殿です。王を求めて王の宮殿に行く。至極当然の事です。しかし、そこに王はいませんでした。さらにエルサレムの人々は新しい王の誕生の事すら知りませんでした。王は自分の地位が危ういのかと恐れ、人々はこの暮らしが変わるのか、と不安になります。

しかし王はエルサレムではなく、そこから10キロほど南下したベツレヘムという村で生まれました。眩しい光のすぐ側は一番その存在が消し去られる場所です。けれども、救い主を示す星は占星術の学者たちをベツレヘムに生まれた幼子へ導きます。その星は神様の矢印です。

「ここを見てごらん!ここに私の伝えたいものがあるよ」。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(10節)と書かれています。彼らは何もまだ見ていません。でも、星が「彼だ」と言っているのです。神様が「ここに私の子がいる」と言われるのです。立派な行いが出来る人はたくさんいます。人の心を打つ話の出来る人もたくさんいます。不思議な事を行う事が出来る人もたくさんいます。イエスもそうです。しかし、大切なのはそのイエスを神が「私の子」と示した事です。イエスの歩みが神様のつながっているということです。だからイエス様なのです。

占星術の学者たちはイエス様と出会い、捧げ物をして帰ります。彼らは「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(12節)とあります。「別の道」とは神様につながる道です。戦いに勝つ道ではなく、この世的な豊かさを求める道でもなく、小さな命と共にあるその道こそ神様につながっています。「私はベツレヘムに私の子を与える。ここに私につながる道を備える」クリスマスにはそんなメッセージがあります。(牧師:田中伊策)

道になられる救い主 ヨハネによる福音書14章6節

「信じ方が生き方となる」 マタイ7:1-6

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」(1節)。この言葉は逆に読むと「人を裁くと人からも裁かれる」となり、因果応報的な色の濃い言葉になります。確かに人生においてそのような事はよくあります。けれども、ここでは単に人間同士の関わりについて言われているのではありません。もっと根っこの事柄です。

「攻撃は最大の防御」と言います。スポーツでも攻撃をしている間は相手は防戦一方となり、自分は攻められる事がないので守っているのと同じです。「攻撃することで自分を守っている」のです。「人を裁く」というのは、これに似ているのかもしれません。本当は自分が裁かれるのが怖い、自分の弱さや足りなさ、自分の罪を指摘されるのが怖い。だから人を攻撃する、人を裁く。そうやって実は自分を守っているのではないでしょうか。そして、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目に中にある丸太に気付かないのか」(3節)とあるように、人はそれを無意識で行っていることが多いのです。

「丸太」を「電信柱」に言い換えてみましょう。電信柱が目の中に入る事自体あり得ないのですが、もう一つ、それを自分で取るというのもあり得ない、無理な事です。つまり、自分の過ちを自分で償う、自分の小ささを自分で補う事自体出来ないのだ、とも言えます。自分の小ささも弱さも過ちも赦してもらわなくては生きられないのが人間なのです。そして神はその人間を愛し、その罪を赦し、取り除かれるためにイエス様を与えられました。赦されるしかない、と思えた時、人はもう裁く事は出来なくなります。

私達が人を裁く時、自分の心からイエス様を遠ざけ、自分を守ろうとしているのです。私達が赦す時、自分の心にイエス様を迎え、神様の御手に包まれています。人は信じ方が生き方となり、生き方が信じ方となってゆくのです。 (牧師:田中伊策)

「信じ方が生き方となる」 マタイによる福音書7章1-6節