「幸せが待っている」 マタイ5:1-12

イエスはこんなことを語られています、『悲しむ人々は幸いである』(マタイ5章4節)。こんな言葉を聞くと「クリスチャンという人種は、悲しい事や困った事も嬉しい事のようにニコニコしなければならないのか」と思う人もいるかと思います。でも、そんな気持ちの悪い話ではありません。しかしクリスチャンだって悲しい時には泣くし、困った時には眉間に皺もよります。この言葉には続きがあります、『その人たちは慰められる(だろう)』。つまりイエスは「今、悲しんでいるあなた。あなたの傍らにその悲しみを受け止め、共に歩もうとする人を与えよう。私もあなたと共にいる。あなたは独りじゃない。その悲しみには終わる時が必ず来る。」と言っているのです。「どんなに闇が暗くても、必ず朝はやってくる」という言葉が当たり前であるように、その悲しみにも必ず慰められる時が来る、幸せは待っている、というのです。

この言葉の少し後に『平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる(だろう)』(9節)という言葉があります。この「平和を実現する人々」は「平和のために苦労している人々」と言った方が良いかもしれません。平和を実現しようとすることの大変さを今、痛感している私達にはその意味が分かるはずです。仲よくしようとする事、仲裁する事、慰める事、それもまた難しい。しかし、ここでも「どんなに闇が暗くても、必ず朝はやってくる」という言葉が当たり前であるように、平和のために苦労する歩みの先には必ず、本当の幸い、幸せが待っているとイエス様は語ります。

悲しんでいる人と悲しみを慰めようとする人が共にイエス様の周りにいて、その真ん中でイエス様が「幸せは待っている」と言われます。もしかしたら既に来ているのかもしれません。どんな出来事の中にあっても、共にある歩みの中にこそ幸いがある。神と人、人と人とが共にある歩みは幸いであり、その歩みの先に幸せが待っているのです。(牧師:田中伊策)
「幸せが待っている」 マタイによる福音書5章1-12節