「名もなき意味」 マタイ1:1~6

マタイによる福音書1章1節には次のようにあります。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」。

「アブラハム」というのはイスラエル民族の始まりの人物です。そして、そこからイスラエルの最も偉大な王と言われたダビデとつながり、そしてイエス様へとつながっている、そういう系図。そして、1章6節「エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、」はその偉大な王ダビデの事が書かれている個所です。しかし、ちょっとややこしい書き方をしています「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」。このややこしい一文は、このイエス・キリストの系図に波紋をおこします。そもそも、系図の意味は「由緒正しい血筋の証明」です。しかし、この一文はその意味を否定しているからです。

ダビデ王はある日、一人の美しい女性を見初めます。ダビデは部下にその女性の素性を調べさせ、彼女がウリヤという兵士の妻のバト・シェバという人物であると聞き、部下を使って彼女を王宮に連れて来させ、我が物としてしまいます。しかし、問題はそれで終わりません。彼女は妊娠してしまうのです。それを知ったダビデはウリヤを戦いの激しい場所に送り、戦死させてしまいます。その後、ダビデは彼女を妻として迎えるのです(サムエル記下11章)。

あえて系図にこのスキャンダルを想起させる書き方をしたのは、「由緒正しい血筋の証明」をするためではなく、系図では見えないものが人生の中、人の世にはあるということを語り、一人ひとりの人生は多かれ少なかれ、破れや解れがあるのだと語っています。系図なんてそんなもの、人の世というのはそういうものだ、って語っているのです。

では、それでも記す系図の意味はどこにあるのでしょうか。そのような悲しみ多い、罪に満ちた人の名の記された系図に何の意味があるのでしょうか。大切なのはここです。「何の意味があるの?」「何の価値があるの?」と思うような人の世を貫いて神はそれでも人を愛し、その人の世にイエスを与えられた、そこにこの系図の意味はあるのです。この系図は「由緒正しき血筋の証明」ではなく「にもかかわらず変わらない神の愛の証明」(名もなき者を見捨てず、目を注ぎ愛を注ぐ神の愛の証明)なのです。そして、「バト・シェバ」をあえて「名もなき女性」(ウリヤの妻)とした系図は、権力者がどれだけこのバト・シェバの人権を無視してその人生を蹂躙したかを表すと共に、歴史の中に微塵も出てこない一人ひとり、世界の歴史には何の意味も持たない一人ひとりの人生のエピソードを捨てずに抱えて下さる方の誕生を意味しています。(牧師:田中伊策)

「名もなき意味」 マタイによる福音書1章1節6節