作成者別アーカイブ: Web管理

2025年6月15日「キリストの内にいる者と認められるために」

 イエス様に出会う前のパウロは、ユダヤ人であることを誇り、律法の義においては非のうちどころがないと自負していました。しかし、復活のイエス様に出会った今は、それらは、「塵あくたにすぎない」と言います。なぜなら、主イエス様と親しく人格的に結び付けられたことの素晴らしいを知ったからです。そして、これまで誇りにしてきた肉的なものをすべて捨て去っても惜しくなく、それら一切を損失であったと見なすようになったからです。
 パウロは、神の義を得るためには、律法による義が必要だと考えていました。それは、自分の力に頼ることであり、神様の憐みによって与えられることを知らなかったからです。しかし、キリストの信仰によって与えられた義に生きる時、神様の憐みに気づきます。肉に頼る生き方は、一時的・その場かぎりの平安を得ることができます。でも、イエス・キリストへの信仰によって「キリストの内にいる者と認められる」ことによって、肉の欲望を超えた魂の平安が与えられます。信仰とは、神様がキリストを通して私たちに差し出してくださっている救いを恵みとして受け入れることです。これほど幸せなことはありません。(牧師 篠田 裕俊)

2025年6月8日「愛の共同体として、思いを一つにして」

 今日は、教会の誕生をお祝いする「ペンテコステ」です。初代教会の人たちは、「心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美」していました。
 しかし、やはり人の集まりです。いつしか教会の中で対立や分裂が起こります。そのような教会に対してパウロは、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせて、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」と言います。パウロの願いは、愛の共同体である教会が、思いを一つにして共に喜ぶことです。そのためには、私たち一人一人が、イエス・キリストに結ばれて、命の言葉をしっかりと保っていることが大切です。(牧師 篠田 裕俊)

2025年6月1日「キリストを生きることの喜び」

 フィリピの信徒への手紙は、「獄中書簡」と呼ばれるものの一つで、伝統的にパウロが、晩年にローマの獄中で書かれた手紙と伝えられています。また、この手紙には喜びに溢れており、「喜びの手紙」とも呼ばれています。どうして獄中にあったパウロは喜んでいるのでしょうか。
 一つは、フィリピの教会が成長し続けていたことです。パウロがフィリピで伝道して救われた人は、数人でした。その後、順調に成長しパウロを支え続けました。二つ目が、福音が前進したことです。パウロが投獄されたのは、キリストを宣教したためです。そのことを知ったローマの兵士たちが、福音を開きました。また、ローマ教会の人たちは、パウロの姿を見て伝道に励みます。しかも、パウロに反対者たちも伝道をしたことで福音が広がったのです。三つ目が、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と言うように、自分が生きるにしても死ぬにしてもキリストとともにいることを感謝するのです。そして、四つ目が、福音のために苦闘することも恵みであり、それこそ福音にふさわしい生活です。順調にいっている時だけでなく、苦難の時であっても、失われない喜びこそ、キリスト者の歩みなのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年5月25日「キリスト者の自由、それは愛によって働く信仰」

 パウロは、「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです。」といいます。では、キリスト者に与えられた自由とは、どのような自由でしょうか。一つは、律法の支配、つまり律法を守らなければ救われないという思いからの自由になることです。もう一つが、愛をもって仕える自由です。
 イエス様は、律法全体は神と人とを愛することに基づいていると言われます。でもそれが、「キリスト者だから行わなければならない」となると、それは律法の奴隷になってしまいます。大切なのは、キリスト者の自由は、隣人を愛するがゆえに喜んで仕えることができる自由であり、愛によって働く信仰です。
 私たちは、神様に拠り頼み、聖霊の導きによって歩むとき、イエス様を愛し、隣人を愛して生きていくことができ、聖霊の導きによって豊かな実が結ばれます。その恵みに感謝して歩んで行きましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年5月18日「イエス様は、私の内に生きておられる」

 ガラテヤの人々は、偽教師によって、イエス・キリストの信仰だけでなく、律法も必要だと考えるようになっていました。それに対してパウロは、「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに」と言います。私たちが、神様を知ったのは、自分が求めたからだと思っています。しかし、私たちの思いよりも先に神様が、私たちを知ってくださり、神様から義とされ、神の子と認められて、律法から解放してくださっているのです。それなのに、もう一度律法の奴隷に戻ろうとしていたからです。
 さらに、パウロは、「もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」と言います。それは、イエス・キリストの福音に立ちかえって、「キリストがあなたがたの内に形づくられる」ことを願うからです。私たちは、神様を知っていくのではなく、神様に知られていることを知ることによって、わたしの内にキリストが生きておられて、キリストが私たちの内に形づくられることになります。そうすれば、イエス様以外のものに頼る必要はありませんし、キリストの愛と希望によって生きる者とされるのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年5月11日「信仰によって義とされる恵み」

 私たちキリスト者は、イエス・キリストによって救われていることを信じています。では、その救いとはどのようなものでしょうか。パウロは、「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」と言います。「義」とは、「正しい」と訳せる言葉です。そして、「義とされる」とは、審判者である神様が、「あなたは無罪である」「正しい」「それでよい」と言ってくださるということです。しかし、私たちは欠けが多く、問題を多く抱えています。それでも神様は、私たちを義とし、義であると認めてくださるのです。しかも、律法の行ないではなく、ただ、イエス・キリストへの信仰によってです。
 神様から義とされるという恵みは、神様の一方的な恵みであり、私たちへの贈り物です。赦されるはずのない者が、十字架に架けられたイエス様によって無条件に赦され、生きる力が与えられるのです。神様の贈り物を受け取って、神様の恵みである救いの道を歩みましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年5月4日「救い、それはキリストの福音」

 ガラテヤの信徒への手紙は、「キリストの福音」と「キリストの自由」を明らかにした手紙です。宗教改革者マルティン・ルターは、「私はこの手紙と結婚した」と言うほどにほれ込み、宗教改革を推進する原動力となった手紙です。
 ガラテヤの人々は、パウロが去ったあとに律法遵守を説くユダヤ人キリスト者によって、パウロが伝えた「キリストの福音」から離れようとしていました。なぜなら、ユダヤ人キリスト者たちが、救われるためには「割礼」を受けてユダヤ人のようになって、律法を守らなければならないと教えていたからです。
 しかし、人間は、律法を守り通すことはできません。私たちが神様との交わりを回復する救いへの道は、神様の恵みであるキリストの福音のみです。ですからパウロは、キリストの福音に何かを加える必要はないことを教えて、ガラテヤの人々の信仰を真の福音に戻すために、この手紙を書き送るのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年4月27日「世の終わりまで共におられるイエス様」

 マグダラのマリアからイエス様の復活を聞いた弟子たちは、イエス様が約束されていたガリラヤの山に行きます。そこにはイエス様が待っておられ、イエス様の姿を見た弟子たちは、ひれ伏して礼拝します。しかし、「疑う者もいた」とあります。聖書は、イエス様のお姿を見ても、復活を信じることができない弟子たちがいたことを隠すことなく記すのです。
 イエス様は、弟子たちに近寄られて、「すべての民を弟子しなさい」と命令されます。そして、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されます。
 マタイ福音書は、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」預言と「あなたがたと共にいる」という宣言で囲まれています。私たちの歩みは、この御言葉どおりにイエス様が共におられて守られています。そのことを信じて、弟子の道を歩んで行きましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年4月20日「さあ、ガリラヤに行こう!」

 イースターをお祝い申し上げます。イースターは、十字架で死なれたイエス・キリストが三日目に復活されたことを記念する日です。イエス様は、十字架に架かって死ぬが、三日目に復活されることを予告されていましたが、人間の常識からすれば、死んだ人間が復活するなど考えられないことです。きっと弟子たちも半信半疑だったでしょう。
 イエス様が十字架上で亡くなられてから三日目の日曜日の朝早く、マグダラのマリアたちは、亡くなったイエス様の体に香料を塗るため墓に行きます。すると、彼女たちの前に主の天使が現われて、「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」と告げます。その言葉を聞いた彼女たちは、大いに喜び、急いで弟子たちに知らせに行きます。すると、イエス様が彼女たちの行く手に立って、「おはよう」と挨拶されます。そして、「恐れることはない。行ってわたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」と言われます。
 ガリラヤは、イエス様が天の国の福音を宣べ伝え始めたところであり、最も多くの御言葉を語り、御業を行われたところです。イエス様は、弟子たちがガリラヤに行くことで、ご自分の御言葉と御業を思い起こして欲しいと願われたのです。イエス様は、私たちの罪を贖うために十字架に架かって死なれました。そして、私たちに永遠の命を与えるために復活されたのです。
 私たちは、イエス様と会うために、週の初めの日ごとに、教会に集うように招かれています。イエス様は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と言われます。神様は必ず約束を守られるお方です。私たちにとって、これほど大きな恵みはありません。

(牧師 篠田裕俊)

2025年4月13日「わたしたちの愛のために」

 十字架のイエス様の頭上には、「これはユダヤ人の王イエスである」という罪状書きが掲げられ、左右には二人の強盗も一緒に十字架につけられました。イエス様が強盗と一緒に、しかも真ん中につけられたのは、罪なきイエス様を罪あるものと示すためでした。しかしそれは、イザヤ書で預言されていたとおり、私たちの罪を代わりに引き受けるためには、罪人として認められなければならなかったからです。
 人々は、イエス様に「神の子なら、十字架から降りて、自分を救ってみろ」と罵声を浴びせます。イエス様が、十字架から降りることは簡単なことです。しかし、そうなさられなかったのは、イエス様は十字架の死を目指して歩んでこられたからです。そして、神の子であるがゆえに、父なる神様の御心に従って、私たちの罪を背負うために、十字架の苦しみをすべて受けられたのです。イエス様は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれて、私たちと父なる神様との間にある和解の扉を開いてくださいました。イエス様は、すべてを背負い、耐え忍び、死にまで従われました。そのようにしてまで、私たちを愛してくださっているのです。
 今週は受難週です。イエス様の十字架の傍らに立って、イエス様の言葉を聞き、そこで起こった出来事を見て、イエス様によって救われたことを感謝して歩んで行きましょう。(牧師 篠田 裕俊)