月別アーカイブ: 2019年1月

「お客様は神様です」ルカに5:27-32

イエス様の時代、イスラエルはローマ帝国という大国の植民地にとなっておりました。大国が植民地を持つ旨味、それはそこからさまざまなものを搾取して自分の国を財政的人材的知識的に富ませるためです。無理な徴税もその一つです。

徴税人レビはそんなことを仕事としていました。多分、その道を通る者から通行税を徴収していたと思われます。さらにその税金の金額は徴税人が決めて良いことになっておりましたから、このレビはローマに納税するよりも多くのお金を徴収していたと思われます。イエスはそんな彼が徴税所にいるのを見て「わたしに従いなさい」(27節)と言います。そして聖書には「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。何でこんなに簡単に従えたかというと、この徴税人という仕事はお金は入りますが、同胞から「ローマに魂を売り渡した者」「罪人」「裏切者」扱いをされていたからです。様々なものを手に入れても、心にはポッカリ穴が空いていた、そんな状態だったからこのイエス様の言葉が響いたのではないでしょうか。

ただ、この「何もかも捨てて」という言葉は原文(ギリシア語)からの直訳では「一切を残し」とあります。今まで握っていたお金、仕事、地位、そういうものを一端自分の手から離し、イエスに従ったという事であり、お金や仕事を本当に捨てた、ということではなかったでしょう。何故なら、彼はイエス様のために自分の家で盛大な宴会を催すからです(29節)。

ここにはレビの大きな変化があります。人から蔑まれながらも「自分のために」生きて来た彼が「イエス様のために」生きるため、他の徴税人も招いて一緒に生きようとしているからです。それは自分の思った通りに自分の思う方向にハンドルを切っていたドライバーが、客を乗せて客の言う方向、言う所に向かうタクシーの運転手に変わるようなものです。客が「そこ右に曲がって」と言われたら右に曲がるように、信仰も同じでイエス様が新しい道を進もうと促すその道へハンドルを切る生き方が信じて生きるということです。これってイエス様をお客様として載せている運転手みたいなものです。 (牧師:田中伊策)

「お客様は神様です」ルカによる福音書5章27-32節

「赦されて救い」マタイ18:21-35

聖書の初めには創世記というところがあります。神様が世を創られた、すべてを違う物としてすべて良いものとして、カラフルな世界を作られた。そんな中で人も創られます。アダムとイブです。

二人ははじめ、神様の創られた世界の中で喜んで生きていたのですが、蛇によって知恵をつけられてしまいます。これ自体は何も悪い事ではありません。知恵は決して罪ではありません。問題はこの後、人間はその知恵によって「自分が裸であることを知り自分の姿を無花果の葉で隠した」と書かれています。人間という物は不完全なものです。でも、それが当たり前だったら何も恥ずかしがることはありません。でも人間は完全を求めるんですよね。そして、彼らの目の前には彼らを愛して創られた完全なる神がいる。それで、自分が不完全な自分に気づいて恥ずかしくなって隠れた、って言うのです。

つまり、聖書が神様の愛について記せば記すほど、人は自分の不完全さを知る訳でもあります。聖書は神を語っているけれど、同時に私を映し出す鏡なのです。神様の愛の前に私たちは自分を知らされる、「私って駄目だなぁ」って。

でもね、私たちは決して駄目じゃない、不完全ではあるけれど駄目じゃない。大事なのはその不完全さを隠さない事です。それを隠してなかったことにしたり、比較して優越感や劣等感を感じたりする、そういうところに私たちの罪が潜んでいるのです。

本当は寂しいのに、本当は助けて欲しいのに。でも隠しているから救いようがない。自分で自分を守っているから入る隙間がない。そんな状態こそが罪なのです。「自己責任」なんて助けたくない人の言い訳です。「一人の方が楽」なんて自分を包み隠す言い訳です。私たちは不完全、自分で自分を救えない。だから助けられて生きるのです      (牧師:田中伊策)

「赦されて救い」マタイによる福音書18章21-35節

「新しい人を身に着け-成人の日を前に」コロサイ3:9〜10

寒い毎日、何を着ようか?気を使います。服や持ち物の色、デザインを組み合わせる「コーデ」は若者ばかりでなく、老若男女問わず世界共通の関心事です。

最初の人間アダムとエバが裸の身を覆うためにいちじくの葉をつづり合わせて以来、人は無数のアイテムを作り出して体を護り、生活に彩りや着る・着せる喜び、楽しみを加えてきました。その一方で人を外見や能力・生産性の高低で評価して自分や他者に張り付ける言葉や思いもまた無数に作り出し、傷つけ合ってきました。

平和、経済格差、教育…山積する課題を解く鍵は、お互いのいのち・存在の尊厳を認め、生かし合う心にこそ。世間の評価・価値観に振り回されて歩む「古い人」的な考え方・生き方を脱ぎ捨てて、独り子イエスをこの世にお送り下さり、「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いて」(2章14節)下さったほどにわたしたちを愛し、キリストにある自由を下さっている神に気づきなさい。「憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい」(3章12節)-この手紙が勧めていることはすなわち、明日の「成人の日」に大人としての門出を祝われる若者に対して願っていることであり、すでにその日を過ぎて久しい時を歩む中、世間の価値観に自らを合わせ、ともすれば埋もれさせてしまっている大人が自身をふりかえり、豊かな人生を歩むために心に留めておくべき勧めでもあります。

新たな春を歩み出す心に必要な装い、着替えは何か?人の心・生き方を新たに、明るくする「神さまコーデ」を聖書のうちに見つけましょう!

(協力牧師:坂東資朗)

「新しい人を身に着け-成人の日を前に」コロサイの信徒への手紙3章9節後半〜10節

「赤ちゃんイエスの力を受けて -新しい年の歩みのために-」ルカ2:8~12

今日1月6日は「公現日」、東方の博士たちが幼子イエスを拝した日=ユダヤ人以外の人々にイエスがお姿を現された(顕現)日として大切にされています。イエスさまのお誕生を伝えるマタイもルカも赤ちゃんイエスさまが生まれたとたんに何かを話したとか、生まれつき特別な力を持っていたということは伝えていません。

自分では食べることも飲むこともできない赤ちゃん。けれども、赤ちゃんには確かに力があります。大人たちは小さく弱い存在に対して、言葉を替え、笑顔を向けて、その必要を何とか聞き取ろうと耳を、頭を働かせ、想像をめぐらせてあれこれ働きかけます。「自己責任だ」と他者と距離を置く、自分の利にならない面倒をかける相手との関わりを切り捨てる考え方とは全く逆の、損得勘定をぬきに小さな命を守ろう!大切にしようという価値観・行動への逆転を起こす、教える力をもっています。そしてもうひとつ、私自身のいのちの始まり、歩みに思いを至らせ、周囲の人々の守り、支えの大きさ、力を再確認させてくれる力を持っています。

イエスさまはすでに出来上がった大人として来られたのでなく、赤ちゃんの姿で来て下さいました。病気をいやすことも、たとえ話の一つもできません。けれども赤ちゃんだからこそのメッセージを発しておられ、そのメッセージが2019年を歩みだそうとしている私たちに必要だと思わされています。

外国人労働者の受け入れ拡大、経済的な格差の放置、家庭での虐待や育児放棄の中に過ごしている子どもたち-社会が大きく変わろうとしているこの年の初めに、どのような関わり、交わりを創めましょうか?多くの人々の目と手、言葉を通して与えられた神さまの恵みの中で育てられ生かされてきた私であることを振り返りつつ、与えられてきた恵みを、小さくされている人々への思い、行いの中で分かち合いながら、歩む者へ。私たちの価値観・生き方を神さまを基として立て直す年に。そのように心から願います。(協力牧師:坂東資朗)

「赤ちゃんイエスの力を受けて -新しい年の歩みのために-」ルカによる福音書2章8~12節