タグ別アーカイブ: コリントⅠ

「愛する道を進みましょう」 コリントⅠ 10:13b

「神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせられることはなさらず」とあります。私たちが生活する中で、困った事、苦しい事があったら、それは神様が「お前にはこれを耐えられはずだ。このわたしを超えて行きなさい!」っていう事なのでしょうか?そうだとしたら、神様ってイジワルだと思いませんか。わざと大変なことを起こして困らせようとするなんて。

じゃあ、どうして私たちには時々、困ったことや悲しい事が起こるのでしょうか。誰もケンカがしたい、人の悪口を言いたい、意地悪したい、なんて最初から思わない。でも、相手の事が分からなかったり、考え方が違ったり、なかなか思ったことが伝わらなかったりするから、だんだんイライラしたり、喧嘩したり、「もう知らない!」って思ったりするんですね。それは私とあなたは違うから。それは神様が一人ひとり違う人として神様が作られたから。私たちは神様の手作り。だから一人ひとり違う。私と違うあなただから、考え方も違う。出来る事も違う。だから、時々けんかもする。実は、試練というのは生きることそのものです。

でも神様は私たちがそれでも一緒に生きる道を作って下さっています。それが「愛する事」です。相手を大切に思う、仲良くしようとする、分け合って一緒に食べる、それが愛するって事です。そして光の園ってそういう所だったと思います。教会もそうです。神様は私たち一人一人を大切にしてくれている、愛してくれている。だから、私たちもそうしましょう。それが光の園幼稚舎、そしてそれが田隈バプテスト教会です。この教会に毎週集まって礼拝するのはそれが嬉しいから。光の園に毎日集まって来たのはそれが楽しいから。教会では、神様を礼拝して、そして礼拝から私たちが暮らしている場所に帰ってゆくのです。同じように、光の園からおうちに帰ってゆくのです。新しい一週間の始まりです。そして新しい歩みの始まりです。愛する道を進んでゆきましょう。(牧師:田中伊策)

「愛する道を進みましょう」
コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章13節b

「いろいろありますが」コリントⅠ 12:4-11

いきなりですが聖書で言う(聖)霊って何でしょう?

この事を考える時に、霊だけを独立して考えるのではなく、三位一体、つまり三つ(父、子、聖霊)は一つだというところから考えるべきなのだろうと思います。 コロサイの信徒への手紙1章にこんな言葉があります。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」(15節)。「見えない神の姿」、神様は見えない、見えないと私達は不安になります。神様って本当にいるの?神様なんていないんじゃないか?「神も仏もあるものか」そう思うのは絶望する時です。

その絶望の中イエス・キリストは来られ、「神様はあなたを愛しているよ。共におられるよ。ほら、私も一緒だよ」そう語られました。それが「御子は、見えない神の姿」です。神様という存在を、イエス様はその姿であらわして下さったのです。 では、霊って何でしょう。聖書の中では「霊を受けなさい」という言葉が繰り返し使われます。ヨハネによる福音書20章22節でイエス様は「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」。

つまりイエス様は息を感じなさい、って言われるんです。風は見えないけれど、頬に冷たい、若しくは生暖かいものが当たったら風が吹いているって分かる。また木が揺れたら風が吹いているって分かる。その吹いている風をその動きから風を感じなさいというのです。それが「聖霊を受けなさい」ということです。

それを神様とどういう関係があるか、それは様々な出来事の中に神様の働きを感じなさいということです。イエス様は「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」と言われました。それは鳥を、そして花を見る中で、そこに働かれる神様を感じなさい、ということです。 神は見えない。その見えない神様を、姿をもって示してくださったのがイエス・キリスト。そして聖霊というのは見えない神様の働きであり、足跡であり、しるしです。互いに補い合いながら神はその愛を私達に示そうとしているのです。 (牧師:田中伊策)

「いろいろありますが」コリントの信徒への手紙一12章4-11節

「幼子を越えて」 コリントⅠ 13:8-13

聖書で「幼子」というとイエス様の「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである(マルコ10:14)」の言葉を思い起こします。ですから「幼子」=「良い存在」というイメージを持ちます。そこから「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを捨てた(11節)」の言葉も「大人になった私は、いつの間にか子どもの頃の純粋さを失ってしまったよ」というように理解しがちです。

けれども、この「幼子」という言葉とイエス様が使われた「子供」という言葉とは全く違う意味です。イエス様が語られた「子供」という言葉は「パイディオン」という言葉で、親から守られるべき存在、愛を受ける権利を持つ存在としての子どもです。それに対して「幼子」という言葉は「ネーピオス」という言葉が使われています。このネーピオスという言葉は「ネー」(否定)という言葉と「エポス」(言葉)という言葉の合成語と言われています。「未だ言葉を持たない存在」という意味です。それは「話せない」とか「語彙が少ない」というよりもむしろ「経験や体験の少ない」という意味だと思います。何故なら言葉は経験を通して生きたものとなるからです。

私達は生きる中で様々な経験をします。喜びも悲しみも、成功も失敗も経験し、体験や経験から言葉の意味を理解する者(大人・成人)となるのです。そして言葉を知った者はもう知らなかった時には戻れません。それでも希望を持ち続けるのが幼子を越えた信仰です。「鏡におぼろに映ったものを見る(12節)」(昔の鏡はぼんやりとしか映らなかった)、それは光の見えない現実、先の見えない未来です。しかしそれでもなお「顔と顔とを合わせて見る」日を待ち望むのです。

きっと大人に一番必要な言葉(エポス)は「現実の厳しさ」ではなく「目に見えるものが全てではない」です。信仰も希望も愛も目に見えないのですから。幼子を越えて、それでもなお子供のように神の国を受け入れる者でありたいと思います。(牧師:田中伊策)

「幼子を越えて」 コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章8-13節

 

「愛があれば」 コリントⅠ 13:1-3

「愛があれば」 コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章1-3節

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」(1節)

「異言」というのは熱心に祈るあまり興奮状態、もしくは恍惚状態になり、自分の意思とは別に唇が震え、言葉を発する事柄を言います。コリントの教会ではそういう人のことを「神様から直接言葉を頂いて話しておられるんだ」と理解し「この人は神様と強く結びついているんだ。素晴らしい。私も出来たらいいな」って思っていたようです。

でも、我を忘れ、常軌を逸した「興奮状態」でしか神様と結びつくことが出来ないのであれば、それは現実逃避です。また心を高揚させ、登り詰めて恍惚状態になる異言は非常に個人的で他者性がありません。言い換えると、愛がない。神様を求める事、熱心になる事、それは尊い事です。でも、そこに他者への思い、愛がないのであれば、その熱心さには何の意味もない、とパウロは言うのです。

フィリピの信徒への手紙2章6節には次のようにあります、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。

イエス・キリストの事柄は、「神は、夜の星のように手の届かない遥か遠い先におられるのではなく、あなたの目の高さ、いやあなたが目を落としたその高さに、さらにあなたが躓き倒れたその目の高さにおられるよ」ということを教えてくれています。私達の悲しみの多い、悩みの多い、躓きの多いこの歩みのただ中にいて下さる、ということです。 (牧師:田中伊策)

 

「弱さの中に伴われるキリスト」 コリントⅠ 8:1-13

「弱さの中に伴われるキリスト」 コリントの信徒への手紙Ⅰ 8章1-13節

お祭りって聞くと何だかワクワクします。しかし元来、お祭りというのは宗教との関わりで行われてきたものですよね。豊作を神様に感謝するものだったり、災害が起こらないように神様を鎮めるものだったり。はて。お祭りとかそういう他の宗教行事にクリスチャンはどういう立場を取ったら良いのでしょうか?

この種の疑問はキリスト教が生まれた時からありました。コリントという町の教会からパウロという伝道者に一通の手紙が送られました。きっとこんな手紙だっただろうと想像して書いてみます「拝啓 パウロ様。お元気でらっしゃいますか?ご存知の通りこのコリントという町は、いろいろな宗教、いろいろな神様が並び立っている町です。いろんなお祭り、いろんな礼拝が行われます。それで質問です。礼拝やお祭りの時に出されるお肉は食べて良いのでしょうか。あの肉はきっと捧げられてから振る舞われている肉だと思うのですが偶像礼拝にならないでしょうか…。では、くれぐれもお体を大事にされますように。敬具」

それに対してのパウロの答えはこうです。「偶像に供えられた肉について言えば(8:1)、そもそも私達は『偶像などというもの神ではない』と思っているのですから、食べたって食べなくたってどっちでも良いのです。でも、それが気になって仕方ないという細やかな人もいますよね。もし、あなたがその人の前で「私は偶像なんて神じゃないから食べちゃうよ」と言って食べたら、きっとその人も(食べなくちゃいけないかな…)なんて思いながら無理して食べる事になるでしょう。そんな事になったら、その人は行い(体)と気持ち(心)とが裂かれて苦しい思いをしてしまうことでしょう。その人が救われるためにもキリストは死なれたのに。あなたは食べて構わない。でもあなたが飲み食いするその自由さによって他の人が傷つくなら、きっとあなたの言動にキリストも傷つくでしょう。もし、自由な振る舞いで誰かが傷つくのだとしたら、私なら肉を食べないけどなぁ」。

「自分の自由が誰かを傷つけるなら、それはもう罪だ!」とパウロは言います。自分の自由を貫く強さを持った時必ずどこかで傷つく。しかしキリストは弱さに伴われた。弱さの中で痛む中にキリストはおられる。同じ宗教の人同士でも、勿論違う宗教の間柄でも、一緒に弱さの中で苦しむ人の姿を見る事が出来たら、きっと一緒に生きる道を見つける事が出来るはずです。一緒に祝う日が来る事を願いつつ。(牧師:田中伊策)

「出来る時には気づかない」 使徒9:1-6

「出来る時には気づかない」 使徒言行録9章1-6節

パウロという人は旧約聖書の戒めを一生懸命に守る人でした。そして人にも守らせようとし、それが守れない人、守らない人にはとても厳しい人でした。きっと、パウロは何でもよく出来る人だったのでしょう。そうでなくては山のようにある旧約聖書の律法をちゃんと守れるはずがありません。

でも、出来るが故の落とし穴もあります。自分が基準になってしまう事です。「私は一生懸命しているのにこの人はしていない」「私は頑張っているのにこの人は諦めている」「私は正しく、この人は間違っている」。出来ない人の痛みも、その人が違う事をしている理由も考えようとしません。

「やればできる」それが出来る人の傲慢であることに彼は気づきません。 ある時パウロは、ただ愛するために生き、そして十字架にかかって死んだイエスという人物の影響を受けた人々の事を知ります。「あいつらは『律法は愛だ』などと言う。それは出来ない言い訳だ。そんな不届きな連中は罰せねばならない」そう思い、次々に捕まえては罰を与えてゆきました。

にもかかわらず、彼らは愛するということを止めようとしないのです。だからまたパウロは追いかけまわすのです。そんな中、パウロは旅の途中でまぶしい光の中、イエスに会うのです。「私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべき事が知らされる」。その言葉に視力を失ったパウロは従います。町に入ると、「イエスから行きなさいと言われたから」という理由で彼の元にやって来たアナニアという人物から目を癒してもらいます。

サウロは「この厳しい律法を守る事こそが大事だ」と思い、「愛なんて律法を守れない者の言い訳だ」と思っていましたが、自分が迫害してきたキリスト教徒から介抱された事を通して、愛する事がどれだけ難しく、尊い事かを知ります。パウロの完敗です。そしてイエスとの出会いによって本当に大切なものを知ったパウロは、キリスト教徒となり、キリストを伝える者となります。 人間出来るうちは、なかなか出来る自分の価値を捨てられません。そしてもっと大きな価値があることに気づくことが出来ません。大切に握っているその手の中のものよりも、もっと尊く、もっと大切なものを気づくことが出来たらもっと嬉しい人生を送られるはずです。

「最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリント13:13) (牧師:田中伊策)

「聖なる罪人の教会」 コリントⅠ 1:1-3

コリントの信徒への手紙Ⅰは伝道者パウロがコリントの教会に宛てた手紙です。このコリントの教会はパウロ自身がその地で伝道をして生まれた教会です。ところがパウロが去った後、コリントの教会には様々な問題が起こります。誰を指導者とするかという議論が起こり分裂問題が起こったり(1~4章)、倫理的に乱れた事が起こったり(5~6章)、貧富の差から起こる差別の問題(11章)、特別に何かできる人だけ評価されたり(12~14章)。それを聞いたパウロが書いたのがこの手紙です。

パウロはガッカリしたことでしょう。イエス・キリストを伝える事で神様の愛をコリントの人々に手渡しし、せっかく教会が生まれたのにこんな事になったのですから。しかし、パウロはこの手紙の始まりに次のように記します、「コリントにある神の教会へ」。こんなに情けない恥ずかしい教会に対して、それでもパウロは「神の教会」と呼びかけるのです。

パウロはどうしてそのように呼びかける事が出来たのでしょうか。それはパウロは「教会」というものが何か知っていたからです。パウロは「神の教会へ」と呼びかけた後に「すなわち、…キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と言い換えています。ここには「この教会は神様が大切に思ってあえて選ばれた(聖別された=聖なる)教会だ」という思いがあります。そしてパウロ自身もそうです。

パウロ自身もキリスト教徒を熱心に迫害していた人物です。しかし、そのパウロにキリストが「なぜ私を迫害するのか」と語りかけ、そして敢えて伝道者として選ばれた(「召されて」1節)のです。そんなパウロだからこそ、このコリントの教会を「神の教会」「召されて聖なる者とされた人々」と呼びかけることが出来たのです。

教会は自分を別の場所に置いて人を裁くことが出来ない場所です。こんな私を敢えて神は招かれた、だから人の事を裁くことは出来ない、それが教会です。(田中伊策牧師)

 

聖なる罪人の教会 コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章1-3節