作成者別アーカイブ: Web管理

2026年2月1日「主のまなざしの中で歩む」 

聖書 マルコによる福音書5章25~34節

 今日の聖書箇所は、12年間出血が止まらない病に苦しんだ女性と、娘を死から救おうとする会堂長ヤイロの二人の姿を通し、救い主イエスの慈しみを描いています。ヤイロは地位を捨ててイエス様の足元にひれ伏し、一方で女性は、病ゆえの孤独と絶望の中で「服に触れるだけで癒される」という一縷の望みをかけ、群衆に紛れて後ろからイエス様の服に触れました。
 イエス様は、大勢に囲まれながらも、必死の思いで手を伸ばした彼女を隠れた場所から呼び出し、「生きた交わり」へと招かれます。彼女の行動は迷信的で不完全なものだったかもしれません。しかし、イエス様は、その切実な思いを「あなたの信仰があなたを救った」と認めて病だけでなくすべての苦しみから解放されました。
 イエス様は、私たちに対しても、不完全で揺れ動く信仰のままに手を伸ばすことを待っておられます。私たちが悩みや罪の中で隠れていても、私たちを見つけ出し、「安心して行きなさい」と送り出してくださいます。その歩みは、病や老い、死という鎖を解き放ち、救いと復活の希望の中に生かしてくださるのです。(牧師 篠田 裕俊)

2026年1月25日「主はあなたを蒔き、耕される」

聖書 マルコによる福音書4章1~9節

 マルコ福音書の「種を蒔く人のたとえ」は、分かりやすく教えるための話しではなく、聞く者の生き方と信仰を問う話しです。ここで取り上げられた四つの土地(道端、石だらけ、茨、良い土地)は、私たちの心の状態を指しています。しかしイエス様は、さらに踏み込みで、私たちは「土地」であると同時に、神様によって世界に蒔かれた「種」でもあると言われます。イエス様は、私たちの心に御言葉の種を蒔くだけでなく、耕し、整え、実を結ぶまで関わり続けてくださるお方です。最初から良い土地である人はいません。イエス様によって整えられて、豊かな実りへと導かれるのです。
 イエス様は、「私があなたを良い土地にする」と招かれています。これこそが福音です。自分の状態に一喜一憂するのではなく、今も心を耕し続けてくださるイエス様を信頼し、人生を委ねて歩むとき、三十倍、六十倍、百倍という想像を超えた神様の祝福の収穫が約束されているのです。(牧師 篠田 裕俊)

2026年1月18日「安息日は、人のために」

聖書 マルコによる福音書2章23節~3章6節

安息日は、神様が天地創造を終え、完成した世界を祝福されたことに由来します 。それは人が神様の前に立ち帰り、救いと解放を喜び、命を回復させるための日でした。しかし、イエス様の時代は、安息日を「命を守る戒め」から、人々を監視し縛り付ける「39種類の規則」へと変えてしまっていました。
今日の聖書箇所で、イエス様は二つの出来事を通して安息日の真意を語られます。一つは、空腹のために麦の穂を摘んだ弟子たちの姿です。イエス様は「安息日は人のために定められた」と説き、規則よりも人間の命が優先されるべきであることを示されました。もう一つは、会堂で手の萎えた人を癒された出来事です。人々は「安息日に癒し(労働)を行うか」とイエス様を陥れようとする中で、イエス様は、安息日に「善を行うこと、命を救うこと」の正当性を宣言されました 。
安息日の主であるイエス様は、今も私たちに「手を伸ばしなさい」と招いておられます。日曜日の礼拝は、規則を守るためではなく、復活の主による新しい命を喜び、主の愛に触れて心身を回復させるためです。正しさで人を裁くのではなく、主の愛に応えて、命を慈しみ、善を行う一週間へと歩み出しましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2026年1月11日「今、この時を信じて歩み出す」

聖書 マルコによる福音書2章1~12節

 マルコ福音書2章1〜12節は、屋根を壊してまで中風の友人をイエス様のもとへ運んだ四人の男たちの姿を通し、信仰の本質を問いかけます。イエス様が活動の核としたのは、奇跡そのものではなく「御言葉」を語ることでした 。特に「時は満ち、神の国は近づいた」という宣言は、救いを後回しにできない緊急事態であることを示しています。
 四人の友人たちは、常識外れの行動を通して、この「今しかない」という主の招きに必死に応答しました。イエス様は彼らの行動の中に「信仰」を見出し、単なる病の癒しに先立ち「罪の赦し」を宣言されました。「罪の赦し」とは、神様との隔てが取り払われ、孤独から解放されて新しい関係に生きることです 。イエス様は癒しの奇跡を通して、ご自身に罪を赦す権威があることを証明されました。
 私たちは、具体的な問題の解決だけを求めがちですが、主はそれ以上に、私たちが罪を赦され、神様と共に歩む新しい人生を今、決断して始めることを求めておられます。そして、十字架で私たちの罪を背負われたイエスと共に歩む喜びこそが、福音の核心であると結んでいます。(牧師 篠田 裕俊)

2026年1月4日「新しい一年、福音という光の中で」

聖書 マルコによる福音書 1章1~11節

 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
マルコ福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉から始まります。福音とは、状況が少し良くなるという知らせではなく、神様ご自身が人間の歴史に介入し、赦しと十字架によって救いを成し遂げられたという知らせです。
 洗礼者ヨハネは、荒れ野で悔い改めを宣べ伝え、水によるバプテスマを授けます。悔い改めとは後悔ではなく、神様から背を向けていた生き方の方向転換です。イエス様がヨハネからバプテスマを受けられたとき、天が裂け、聖霊が降り、「あなたはわたしの愛する子」という神の声が響きます。
 ヨハネのバプテスマが神様に立ち帰る招きであったのに対し、イエス様のバプテスマは、十字架と復活を経て、聖霊と新しい命を賜物として与えるものです。バプテスマによって私たちは神の子とされ、神様の愛の中で生きる者とされます。これこそが、今も私たちに与えられている福音なのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年12月28日「平和のうちに、主を待ち望む」

聖書 ルカによる福音書2章21~38節

 2025年の歩みが、主イエス様の導きによって守られたこと感謝します。イエス様は神の御子でありながら律法の下に生まれたのは、私たちと同じ制約や苦しみの中に降りてこられて「真の人」となるためでした。
 シメオンは幼子イエスを受け入れることで「救い」を見、平和のうちに去る希望を与えられます。一方アンナも、長い人生の苦難の中で救いを待ち続けました。救い主を受け入れる者には、死の影や時代の混乱をも超える「平和」が与えられます。現代の私たちは結果を急ぎ、待つことを恐れがちですが、救いは人の焦りによって完成するものではありません。キリストの十字架と復活に結ばれている私たちは、先が見えない時代にあっても、主と共に希望をもって待ち望み、平和のうちに歩む者とされているのです。
 主イエス様は、常に私たちと共に歩んでくださっています。新しい一年も、恐れに追われるのではなく、復活の希望を胸に、平和の主であるイエス様と共に一歩ずつ歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年12月21日「インマヌエルのクリスマス」

聖書 マタイによる福音書 1章18~25節

 クリスマスおめでとうございます。最初のクリスマスは、ヨセフが人生の岐路に立ち、孤独な決断を迫られる中で始まりました。婚約者マリアの懐妊という受け入れがたい現実に、ヨセフは「正しい人」として悩み抜きます。彼はマリアを守るために密かに縁を切ろうとしますが、それは神様の前に一人で立つ苦渋の選択でした。
 しかし、神様は、悩み苦しむヨセフに天使を送り、「恐れず妻マリアを迎えなさい」と語りかけます。信仰とは、すべての答えが出てから動くことではなく、恐れを抱えたまま神様の御言葉に「はい」と応え、神様に委ねることです。ヨセフの静かな従順とマリアの身を委ねる信仰を通して、インマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ばれる救い主イエス様が誕生しました
 神様は今も、不安や孤独の中にいる私たち一人ひとりに「恐れるな。私は共にいる」と語りかけておられます。クリスマスは、何かを成し遂げる日ではありません。神様の愛と希望を感謝して受け取る日です。この救い主が、今日あなたの心の中に誕生することを願っています。(牧師 篠田 裕俊)

2025年12月17日「神様はひとりにされない -マリアの讃歌-」

聖書 ルカによる福音書1章39節~58節

 マリアとエリサベトは、共に神様の言葉を信じつつも、誰にも相談できない不安と孤独の中に置かれていました。しかし神様は二人を出会わせ、不安を喜びへと変えられました。マリアがエリサベトを訪ねた時、胎内の子は喜び躍り、エリサベトは聖霊に満たされてマリアを祝福します。この出会いにより、孤独は破られ、二人は互いの存在を通して神様の慰めを深く味わいました。
 励ましに満たされたマリアの心は、「わたしの魂は主をあがめ」と歌うマリアの讃歌(マグニフィカト)となります。そこには、弱い者を高く上げ、飢えた者を良いもので満たすという神の愛の逆転が示されています。神様の救いは強い者からではなく、弱い者、貧しい者から始まるのです。
 神様は今も孤独や痛みを抱える者に目を留め、支えとなる人を備えてくださいます。教会もまた、神の名によって集う者が互いを支え合い、喜びを分かち合う場所です。待降節の今、神様が「あなたをひとりにしない」と語られる恵みに耳を傾け、やがて来るイエス・キリストの誕生を、喜びをもって迎えましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年12月7日「主が共におられる平和」

聖書 ルカによる福音書 1章26~38節

 待降節第二週、「平和」を象徴する天使のキャンドルが灯されます。平和とは、争いのない状態ではなく、神様が共におられることで生まれる心の平安です。平和は力ではなく共に生きることから始まります。
 受胎告知物語は、一人の普通の女性マリアに「神が共におられる平和」が訪れた出来事です。マリアは特別な人ではなく、神様の一方的な恵みによって選ばれました。天使の言葉にマリアは、恐れと戸惑いが生じましたが、深い沈黙と葛藤の末に「お言葉どおり、この身に成りますように」と応答します。
信仰とは迷わない心ではなく、恐れつつも神様を信頼して一歩を踏み出すことです。神様は強い信仰を求めず、弱さの中にいる人に「恐れるな、私は共にいる」と語られて応答を待っておられます。私たちも「どうして?」と問いながら歩む時がありますが、神様はその問いの先で待っておられるのです。
 待降節は、普通の女性から救い主が生まれた恵みを思い起こし、神様の言葉が私たちの人生に成ることを祈る時です。共におられる神様の平和を胸に歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年11月30日「小さき者に届く希望の献金」

聖書 使徒言行録4章32節~5章11節

 待降節第一主日に灯された小さなキャンドルは、暗闇に差し込む「希望」の象徴です。世界バプテスト祈祷週間を覚える今日、私たちが献げる献金もまた、小さな灯火のように世界の誰かの心に希望を届けます。
 使徒言行録には、復活の主に出会った初代教会の人々が「ひとつの心」となり、互いの必要を満たし合っている姿が描かれています。彼らが喜んで与えることができたのは、すべてが神様から与えられた恵みだと知っていたからです。バルナバは畑を売り、代金すべてを喜びのうちに献げました。一方、アナニアとサフィラは「全部献げたふり」をして神様の前で偽りを働きました。献金は金額ではなく心の誠実さが問われます。
 聖書は、献金の意味を三つ示します。第一に、献金は神への感謝のしるし。第二に、心の優先順位を神に向ける信仰の行為。第三に、教会を通して小さき者に届く愛の実践です。
イエス様は「最も小さな者にしたのは、わたしにしたのである」と言われました。私たちの献金は、届く相手を知らなくても、主の御手で祝福され、世界の小さき者に希望の光となります。私たちの小さな献げ物が、アドヴェントの灯火のように光を放つことを覚え、喜びをもって神様に応答していきましょう。(牧師 篠田 裕俊)