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2025年8月24日「平和に関する信仰的宣言」を読む③

 「平和宣言」の第二部は、「私たちは主イエスのほか何ものにも服従しない」と告白します。主に従うことは、この世の冨や権力や国家などの偶像から自由にされることを意味します。
 十戒の第二戒は偶像を造ってはならない、第三戒は主の名を悪用してはならない、第四戒は安息日を覚えて聖とせよ、と命じています。これらは「神ならぬものを神としない」ことを教えています。私たちが偶像に心を奪われるとき、神様はねたむほどの愛をもって私たちを呼び戻されます。歴史の中で人は神の名によって戦争や暴力を正当化してきました。しかし神様はそのような名の使われ方を拒まれます。神の名は、愛と赦しと平和をもたらすためにあります。
 「平和宣言」は、「礼拝は主イエスへの服従であり、この世に対する断念である」と語ります。礼拝を第一とするとき、私たちは憎しみや不安から解放され、平和を実感し、平和をつくる者として歩み出す力が与えられます。私たちは国家や富や権力ではなく、ただ主イエスに従うとき、赦しと平和の道が開かれます。礼拝の恵みを喜びつつ、主に従う自由と平和をもって歩んでまいりましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年8月17日「「平和に関する信仰的宣言」を読む②」

 毎年8月15日の「敗戦の日」になると、ヴァイツゼッカー旧西ドイツ大統領の「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目(原文のママ)となる」という言葉を思い起します。今日は、歴史を覚えつつ、連盟の「平和に関する信仰的宣言」から十戒第一戒「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」を学びます。
 第一戒は、神様が先に私たちを救ってくださったことに応える生き方を求めます。そして、平和宣言は「信じる者は服従へと召され、主イエスへの服従こそが、私たちを自由にする」と告白します。主イエス様の服従は、束縛のようで、実は偶像や悪しき価値観からの解放なのです。取税人レビがイエス様に従って自由を得たように、私たちもイエス様に服従するとき、お金、地位、名誉など現代の偶像から解き放たれて自由になります。
 イエス様は「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と語って、ただ神様に頼る者こそ真の豊かさを得ると教えます。平和とは「神の御心が地になる」ことです。私たちは、そのために日々、主なる神様のみを拝して、神様の御心を祈り求めながら歩みましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年8月10日「「平和に関する信仰的宣言」を読む①」

 今週15日、敗戦から80年を迎えます。この80年間、日本は戦争の惨禍から守られてきましたが、世界では今も紛争が絶えません。そのような中、私たちは、「平和」とは何かを聖書から学んで歩んで行くことが求められています。日本バプテスト連盟の「平和に関する信仰的宣言」は、単なる政治的声明ではなく、イエス・キリストによって解放され生かされた者の信仰告白であり、「戦争や暴力に加担することはできない」という生き方を告白するものです。
 平和宣言は、十戒を土台にし、律法は救いの条件ではなく、救われた者が恵みに応えて歩む道標であることを示しています。律法主義は否定されますが、律法そのものは神の意思として大切にされるべきであり、福音と一体です。赦された者は赦し、愛された者は愛するように、恵みは行動を生みます。「できない」という言葉は、人間の決意ではなく、キリストへの従順から出る告白です。
 教会は救われた者の群れとして、平和をつくりだす使命を担っています。今こそ教会は「十戒を死文と化してはならない。教会は十戒を生きる」との宣言に応えて、「平和をつくりだす人」として歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年8月3日「キリストによる平和」 

 今年は敗戦から80年です。世界では今も戦争が続き、人々の苦しみは絶えません。聖書は、対立の原因を「罪」と語ります。人が神様から離れることで、他者との関係が壊れ、敵意が生まれるからです。そして、お互いの間には、「敵意という隔ての壁」が築かれることになります。私たちも、自らの「正しさ」を振りかざすことで、見えない壁を築いていないでしょうか。そのような私たちのために、イエス様は、対立するものの間にある「敵意という隔ての壁」を、ご自身の十字架によって取り壊され、ご自身の命をもって和解へと導きます。そして、イエス様は、「平和の君」として、神様との正しい関係を回復してくださるのです。
 キリストは、敵意を越えて私たちを一つとし、教会という神の家族へと招いてくださいます。私たちは、キリストを「かなめ石」とする聖なる神殿として組み合わされ、真の平和に生きる存在へと変えられていくのです。
この8月、私たちはイエスの平和に応え、小さな一歩として、祈り、優しさ、赦しをもって平和を実践してまいりましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年7月27日「あなたは、誰の声に従っていますか?」 

 私たちは日々、恐れや欲望に揺れながら、「誰の声に従うのか」という選択を迫られています。バラムとバラクの物語は、その問いに向き合う私たちに多くのことを教えくれます。
 モアブ王バラクは、神の民イスラエルを恐れ、占い師バラムに呪いを依頼します。一方、バラムは、初めは神の御心に従うものの、金銀に心を動かされ、欲と信仰の間で揺れ動きます。神様はそんなバラムを見捨てず、ロバを通して御心を伝え、彼の目を開かれました。
 この出来事は、私たちが誤った方向へ進んでしまう時、神様は思いがけない方法で語りかけ、正しい道へと導いてくださることを教えています。最終的にバラムは、人の期待や恐れではなく、神様の御心に従ってイスラエルを祝福します。たとえ周囲の声がどれほど大きくても、神様の語りかけに耳を傾けることが、真に祝福された歩みへの道です。私たちもまた、さまざまな声に囲まれています。しかし、心静かに神様の御声に耳を傾け、「主が語られることだけを語る」ものでありたいと願います。(牧師 篠田 裕俊)

2025年7月20日「神様は共におられる。その確信をもって進もう」

 私たちの人生には、決断を迫られる時があります。イスラエルの民は、神が約束されたカナンの地の目前まで導かれながらも、恐れを抱き、不信に陥って前進を拒んだために、40年の荒れ野の旅を強いられました。
 神様が彼らに偵察を許されたのは、信仰をもって従うことを望んでのことでした。偵察した12人のうち、ヨシュアとカレブだけが神の約束を信じ、「主が共におられるなら必ず勝てる」と告白します。しかし、他の10人は現実の困難に目を奪われ、恐れによって人々の心を挫いてしまいました。
 信仰とは、目に見えない神様の約束を信じて歩むことです。私たちも、恐れや困難に直面するとき、神の言葉に信頼し、共におられる主に目を向けて前進すべきです。たとえ道が険しくとも、主が共におられるならば、私たちはひるまず進むことができます。今、約束の地の手前にいる私たちにイエス様は語られます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。この御言葉に応えて、一歩踏み出しましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年7月13日「重荷を共に背負う神様」

 イスラエルの民は、神に導かれて約束の地へ向かう旅の中で、不満を爆発させました。厳しい荒れ野の旅、食への飽き、他国人の影響により、民の信仰は揺らぎ、過去の奴隷生活を懐かしむようになったのです。神様は、その不満に憤り、裁きをもって応答されますが、そこには深い悲しみと悩みが込められていました。
 民の叫びを受けたモーセは、「この民すべての重荷は、わたしには重すぎます」と神に訴えます。この姿は、十字架上のイエス様にも重なります。モーセの執り成しによって、神の怒りは鎮められました。
私たちの歩みもまた荒れ野です。与えられた恵みに感謝できず、不平を抱えてしまうことがあります。しかし、イエス様は「重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい」と招き、私たちの重荷を共に担ってくださいます。
 教会は、互いに重荷を担い合い、祈り合う共同体です。それぞれの生活の中で、主に支えられ、隣人のために祈りながら歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年7月6日「昼も夜も神様を仰ぎ見ながら歩む」

 イスラエルの民は、神の臨在を象徴する雲に導かれて荒野を旅しました。昼は雲、夜は火のように輝く雲が幕屋を覆い、神が常に共におられることを目に見える形で示していたのです。民は自分たちの思いではなく、「主の命令によって」出発し、「主の命令によって」宿営しました。この姿勢は、信仰によって歩む私たちにとっても模範です。けれども、イスラエルの民は何度も失敗し、神の命令に逆らいました。それでも神は、彼らを愛されて、彼らを見捨てず、導き続けます。
 私たちも、自分の思いや都合で歩んでしまう弱さがありますが、イエス・キリストの十字架の恵みにより、何度でもやり直すことが許されています。主の晩餐にあずかる今、私たちは再び主の臨在に触れ、神の家族として生きるよう招かれています。目に見える雲がなくても、御言葉と恵みによって、主と共に歩む日々を大切にしてまいりましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年6月29日「キリストのいのちに生きる」

 マタイ福音書の最後に、イエス様の宣教命令の言葉が記されています。その中に「彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け」(28:19)とあります。ここを、岩波訳(岩波書店が発行している新約聖書)改訂版は、「父と子と聖霊の名の中へと彼らを浸す浸礼を授け」と表しています。「父と子と聖霊の名によって」に対して「父と子と聖霊の名の中へと浸す」は意味が全く違ってきます。この違いは、ギリシャ語原文の訳し方による違いです。「父と子と聖霊の中へと浸すバプテスマ」は、「罪に対して死んで、神に対して生きておられるキリストにあずかることである」(ローマ6:10~11)。今朝は、このことについてお話しさせていただきます。(堀内 明 兄)

2025年6月22日「後ろのものを忘れ、神に委ねて歩む」

 パウロは私たちに、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神様が与えてくださる賞を目指してひたすら走ろう、と言います。どんな賞が用意されているのでしょうか。それは、イエス・キリストです。この私を愛して、この私のために命を捨ててくださったイエス様を知り、そのイエス様と共に生きることこそ喜びであり救いであるからです。
 また、パウロは、「わたしに倣う者となりなさい」と言います。パウロは、かつて教会を迫害していたにも関わらず、イエス様によってその罪が赦され福音を語る者とされたことを忘れることはありませんでした。しかし、その罪に捕らわれるのでなく、それを後ろにおいて、イエス様に向かって必死になって歩んできました。その信仰の姿を倣って歩んで欲しいと願うのです。なぜなら、イエス様の愛の中にあって、イエス様の愛による交わり、信仰による心のつながりによって共に生きることは、大きな喜びであり、そこには神様の恵みと祝福があふれているからです。
 パウロは、試練の時も、困難の時も、すべての歩みを主イエス様に委ねて歩んできました。ただ主イエス様に望みをおいて生きてきた自分の姿に、すべてを神様に委ねて生きる、その生き方に倣って欲しいと願うのです。そして、「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」と私たちを励ましてくれるのです。(牧師 篠田 裕俊)