タグ別アーカイブ: マタイ

「どうして無花果は枯れたのか」マタイ21:18-22

イエスは朝、ベタニヤという村からエルサレムへ向かっていました。その道の途中で空腹になります。そこに無花果の木を見つけるのですが、そこには実がなかったので「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、たちまち無花果は枯れてしまいます。一見、空腹で短気になったイエスが実のない無花果の木を呪ったので枯れた、と思えるような箇所ですが、大切なのは最初の「ベタニヤからエルサレムへ」という所にあります。エルサレムはイスラエルの首都です。そしてエルサレムから3キロほど離れたベタニヤという村は「貧しい者の家」という意味があります。大都市の近くには貧しい人が暮らす地区があるのが世の常です。追いやられた人々が暮らすベタニヤで夜を過ごされたからこそイエスは空腹だったのです。彼らの貧しさは、エルサレムへの富の集中、搾取、差別によるものです。内にばかり蓄え、分かち合おうとしないエルサレムの姿と目の前にある無花果が重なります。

「今から後いつまでも、お前には実がならないように」。このイエスの言葉によって、蓄え続ける先にあるものの姿が露わになります。それは滅びです。人だって、動物だって、植物だって、成長し続けることなんてあり得ません。そして町や国も同じです。だから、私達は他の人に、そして次の世代のために残す事、手渡す事を考えなくてはなりません。それが「実」です。ところが、その事に気づかずに自らのうちに蓄え続ける歩みの先には滅びが待っています。

「経済成長」と言い、まだ大きくなろうとする私達の国は分かち合おうとしないエルサレムそのものです。その流れは大きく強い。しかし、イエスは「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と言われます。滅びに向かおうとする中であっても、私達は祈り続け、求め続けたいと思います。(牧師:田中伊策)

「どうして無花果は枯れたのか」 マタイによる福音書21章18-22節

あなたは高価です マタイ13:45-46

マタイによる福音書13章45-46節

「商人が良い真珠を探している。高価な真珠一つを見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」

『商人が良い真珠を探している』。「探している」というのは、「ここはありそうだ!」と思う所はすべて見て回って、それでもないのであちこち回っているということでしょう。そして多分、意外なところで見つけたのです。「こんなところに!これは絶対ほしい!」。ところが、持ち合わせの現金では足りません。そこでこの商人は「ちょっと待っていて下さい!誰にも売らないでください!必ずお金は持って来ますから」そう言って、その場を離れます。そして別の店で自分の持っている、もしくは身に着けている価値のありそうな物を全部売り払って、現金に換え、それで真珠を求める。そういう話です。

意外なところに価値ある物がある。それは私たち自身のことです。私達は人間の価値とか自分の価値とかを、この世の価値観に重ねます。そしてきれいに重なった部分を良いとし、重ならなかった部分をダメ、とします。けれども、私達の本当の価値は「意外なところにある」と聖書は語るのです。むしろ意外な、他の人とは重ならない部分にこそ、私達の価値がある。他の人、他のものでは代替できない、そこにこそ神様はあなたの価値を見出す、というのです。

そしてその価値のためには、自らの価値(商人の持ち物→神の尊厳とか力とか)を失ってでも大切にしたい、と語られているのです。 あなたの価値は神様が一番ご存知です。神様はあなたを尊いとしてくださり、すべてを捨ててでも大切にしたいと思っておられるのです。神が人となられた、という出来事は正に自らの力を捨てて、あなたを大切にするためなのです。 (牧師:田中伊策)

「父のイメージ」 マタイ5:43-48

「父のイメージ」 マタイによる福音書5章43-48節

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」 (マタイ5:45)

これはイエス様が神様について語っている箇所です。イエス様は神様を「父」と呼んでいます。他の聖書の箇所を見てみると、イエス様が祈る際に「アッバ」(マルコ13:36)と呼びかけています。「アッバ」とは年端のいかない子どもが父親に呼びかける言葉です。無防備な幼子が100%の信頼をもって父に呼びかけるように神様に対して呼びかけています。きっとこの箇所でもそんな思いで「父」と語っているのでしょう。でも、どうしてイエス様は「神様」と言わずにあえて「父」とか「天の父」と呼びかけたのでしょう。

それも、100%の信頼をもって無防備に呼びかける相手に「父」と呼びかけるのでしょう。 「父」というと、大体「一家の大黒柱」「主人」「威厳」「強さ」「怖さ」、そんなイメージを持つのではないかと思います。でも、そのイメージというのは、いつの間にか社会が作り上げてしまった偶像にすぎません。イエスが「父」を語る時、そこにはいつもその社会から自由な男性の姿があります。「放蕩息子の譬え」(ルカ15:11)なんてたくさんの財産を持っていますが、子に対して無力な父親で、ボロボロになって帰ってくる息子を見つけて、走って迎えに行き、そして抱きしめて「死んでいたのに生き返った」と手放しで喜んでいます。「人の目何て関係ない。私はお前が大事なんだ」とただ愛する事しかできない一人の人間としての姿が「父」の姿です。

そこには、イエス様自身の父(ヨセフ)の姿が重なっているのではないか、と私は思っています。ヨセフはイエス様の誕生と幼少期に出て来るだけで、他には出て来ません。イエス様は子どもの頃に亡くなったというのが通説です。イエス様の誕生の出来事でヨセフは、結婚前に聖霊によって身ごもったマリアと一度は離縁しようとしました(マタイ1:19)。姦淫をした、と疑われても仕方ないような事だったからです。しかし、彼はマリアと結婚する事を決意します。まるごとのマリアを受け入れたのです。まるごととは勿論、腹の中にいるイエス様も含めてです。彼は社会の目からも、戒めからも自由になり、ただ愛する事を決意したのです。そんな父、ヨセフの愛の中で育ったからこそ、イエス様は神様を「父」と「アッバ」呼んだのです。 (牧師:田中伊策)

「天までとどけ」 マタイ6:26、13:31-32

「天までとどけ」 マタイによる福音書6章26節、13章31-32節

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養って下さる。」 (マタイ6章26節)

空の鳥は、種を蒔かない、出来たお野菜をどこかにしまってくこともしない、でも、「明日はどうやって食べ物を探そうか」なんて心配しないんでしょうね。子ども達と同じです。皆さんも、明日はご飯、食べられるでしょうか?なんて心配しないでしょ?ちゃんとご飯を作ってもらえることを知っています。大丈夫って、思っています。

いえ、そんな事考えもしません。どうして心配をしないか、というと、毎日毎日、たくさんお父さんやお母さん、お兄ちゃんやお姉ちゃん、お祖父ちゃんやお祖母ちゃん、周りの人、先生、いろんな人からたくさんの「あなたは大切だよ」「大事だよ」をもらっているからです。

「大切だよ」という言葉だけじゃありません。おっぱいをもらって、食べ物をもらって、必要なものを与えてもらって、たくさんの親切をもらって、そうしている間に「ああ、大丈夫だ」って思えるようになってくるのです。 けれど、大人になるといろいろなことを考えるから、どんどん心配になります。

例えば、「みんなで仲よくしましょう」ってその事だけ考えたら良いのに、隣の国の人が攻めてきたらどうしましょう、って心配していろんな武器を持ってしまう。そうすると隣の国も、あっちの国が武器を持ったぞ。攻めて来るのかな。僕たちも武器を持ったらどうだろうか、って考える。

最初の「みんなで仲よくしましょう」って考えるだけだったら、戦争なんて起こらないのにねぇ。たくさん考えると、いろんな心配をするのさ。だから、イエス様は、「空の鳥を見なさい」とか「幼子のようになりなさい」って言われるのです。そして、その「大丈夫。私はあなたのことを大切に思っているのだから」という事を伝えるために、この聖書の言葉、神様の言葉があるのです。 (牧師:田中伊策)

 

「神の言葉とパン」 マタイ4:1-4

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」 (マタイによる福音書4章4節)

上の言葉はイエス様が空腹だった時、そこに誘惑する者が来て「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と唆された時にイエス様が言われた言葉です。この言葉はイエス様のオリジナルの言葉ではなく旧約聖書にある言葉です。旧約聖書の申命記8章2節に「あなたの神、主が導かれた四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい」とあります。

イスラエルの人々がかつてエジプトで奴隷になっていた時、神様はモーセという人物を立ててイスラエルの人々を奴隷から救い出されました。しかし、人々は荒れ野で旅に嫌気がさして「ここにはパンも肉もない」と文句を言います。しかし神はこの何もないような荒れ野で朝にはマナというウエハースのような白い食べ物を荒れ野一面に、夕にはウズラの大群を来させて食べる物とされました。

その事を思い起こさせる文章として申命記の8章があり、その中に「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためである」(3節)という言葉があります。 人の欲望や不満には限りがありません。「あれが欲しい(食べたい)、これが欲しい(食べたい)」と思います。

そんな時に私達の心にささやく声が聞こえてきます、「あいつのをもらっちゃえよ!お前のものにしてしまえよ!お前が神になっちゃえばいいんだよ」って。「石(人の物)をパン(自分の物)に変えてみろよ」って。しかし、私達が聞かなくてはならないのは「私があなたを養う」と言われる神様の声です。そして神様は私達に必要なものを備えて下さいます。それは自分の願っている「パン」ではないかもしれません。でも、分かち合って頂く命の糧を神様は与えて下さいます。(牧師:田中伊策)

神の言葉とパン マタイによる福音書4章1-4節

「人は良い種」 マタイ13:24ー30

聖書はこんな言葉で始まっています。「初めに、神は天と地を創造された」(創世記1:1)。

これはつまり、神様がすべてのものを作って、そこからすべては始まった、と聖書は教えているのです。「神は言われた『光あれ』こうして、光があった」(同1:3)と書かれています。「言われた」それはつまり、神様はこんなふうに思ったということです。

言葉というのは神様の気持ち、そしてその気持ちが形になった、「光あれ」それは真っ暗な人の世に光が欲しい、この真っ暗な中だとみんなが道に迷ってしまうから、光が欲しい、って、そうした神様の気持ちが、心が、言葉が形になったのがこの世界なんだ、と聖書は教えています。

悲しんでいる人、困っている人、ダメだって言われている人、そんな人たちに対して神様はこの人達に光があったら、って思われています。長い間、ずっと神様はその暗い中にいる人達と一緒の気持ちになっていました。そして、そこがパーって明るくなった。それがイエス様です。

イエス様は神様の「みんなのために光が欲しい」という気持ち、そして「光あれ」という言葉がそのまま命になった方です。だから、その光のところにたくさん悲しんでいる人たちが集まって来たのです。その「光あれ」と言われた聖書の始めのお話には、こんな事も書かれています。「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女とに創造された」(同1:27)。神様は人を作られた。私たちです。

そして私達は神様に似たものとして作られた、というのです。どこが神様と似ているのか。私達が神様の喜ばれる事を行う時に似て来るのです。この世の中に、そして悲しんでいる人たちの中に「光あれ」と言われたように、私達も悲しんでいる人達のそばに行って「光があったらいいのにねぇ」って思う時に、神様に似た姿になっているのです。

その神様は人をつくられた後で「それは極めて良かった」(同じ1:31)と言われます。神様は命を、そして私達人を良いものとして作られたのです。私たち一人一人は神様から蒔かれた良い種なのです。 (牧師:田中伊策)

「人は良い種」 マタイによる福音書13章24~30節

 

「地の塩、世の光」 マタイ5:13-16

マタイによる福音書は、教会のために書かれたといわれております。イエス様はマタイを通し、教会に対して「あなたがたは地の塩である。」と語られました。塩とは、なくてはならない存在です。塩がなければ、塩味をつけることはできません。それに、私たちの体は、塩がなければ生きられません。また、塩は、腐りませんし、塩はほかの食べ物が腐ることを防ぎます。塩は、いろいろなものに混ざって、塩として生きてきます。

またもう一つ、イエス様は、「あなたがたは世の光である」と言われます。

光は言うまでもなく、暗闇を照らします。しかし、光をともしているにも関わらず、その光の上に箱をかぶせる人はおりません。光は、光として輝き、闇を照らすのです。

イエス様は、「あなたがたの光を人々の前で輝かしなさい」と言われます。しかし、ふと立ち止まってみると、「イエス様こそ、まことの世の光」です。

そのまことの光が、私たちと出会ってくださり、私たちに「あなた方は世の光である」と語られたのです。私たちは、イエス様の光を分けてもらった存在、または、イエス様の光を移す、鏡のような存在にすぎません。しかしそうであってもまた、私たちは、世の光である、というイエス様の語りかけを聞くのであります。そしてまた、そのことに感謝するとともに、世の光であるといわれていることにもまた、私たちには責任があるように思えてなりません。

今日私は、あなたの塩味を失ってはいないか、あなたの光をかがやかしているかと問われているような気がします。 私たちも、光の園の子供たちに負けずと、私たちの光を輝かしていきたいです。 (青木紋子神学生)

 

「地の塩、世の光」 マタイによる福音書5章13~16節

「大きな柔らかい心で」 マタイ7:13-14

「狭い門から入りなさい」とイエス様は言われます。この「狭い門」とはどんな門でしょうか。「狭い」のですからきっと「窮屈さ」を感じるでしょう。そうでなくては「狭い」とは思えないでしょう。門だけではありません。体が成長すれば、今まで何も思わないで着ていた服も窮屈に感じ、そして着られなくなるのです。それが大きくなるということです。私達は大きくなるということが今まで出来なかったことが出来るようになる、と考えますが、実は大人になることで出来なくなるものだってあるのです。

「狭い門から入りなさい」ということもそうなのではないでしょうか。イエス様は「神の国はこのような者たち(子ども達)のものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入る事は出来ない」(マルコ10:14-15)。持っている、知っている、そう言う事で私達は「得た」つもりになっているけれど、実はそのように思う事で「失った」事柄もあるのです。得たと思う事が心を傲慢にさせ、心を肥え太らせてゆきます。そんな肥え太った心では、当然「狭い門」を通る事は出来ません。

狭い門から入るためには自分が握っている手を離さなくてはなりません。自分で自分を守る武器や鎧を捨て、自分で自分の罪を包み隠す上着を脱がなくてはなりません。

愛する子ども達には大きくなってもらいたいと思います。しかし、頑なにはなってほしくない。優しい心、柔らかい心のままでいて欲しいと思います。大きくなっても柔らかい心ならその狭さを通り抜けることが出来ます。そして何より、柔らかい心なら、他の人の心にしっかり寄り添う事ができます。イエス様が喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣かれたように。子ども達がそのような心のままで成長してゆくことを願いながら、私達もまた、狭い門から入れるように、イエス様を見ながら柔らかい心になってゆきたいと思います。 (田中伊策牧師)

 

「大きな柔らかい心で」 マタイによる福音書7章13-14節

「そこにはイエス様がいる」 マタイ25:34-40

イエス様は神様のお話をする時、よく身の回りの出来事に譬えたり興味のある事柄を譬え話にしたりして話されました。それは「神様をどのように信じるか」ということはそのまま「人生をどのように生きるか」ということだからです。

ある時、イエス様は一つの譬え話をされました。それは「死んだら閻魔様の前で天国か地獄かに分けられる」みたいな譬え話です。洋の東西を問わず、こういう類の話はみんな気になります。

王様はまず、人を右と左に分けます。そして右の人に言います、「神様に祝福された人たち!あなたがたにはちゃんと場所が用意されていますよ。なにしろあなたがたは、私が困っていた時、空腹な時、悲しんでいた時、裸の時に助けてくれたからね!」。

右の人はキョトン!として言います、「えっ?私達がいつそんな事をしましたか?」。「私が大切に思っている小さな者たちにしたのは、私にしてくれたことのだよ」、と王様は言います。

ここには二つの大切な事があります。一つは、この右に分けられた人たちが「いつそんな事をしました?」と言った事です。誰が見ているとか、知っているとか、そんな事を考えもせず、ただ悲しむ者、困った者、痛む者に心を寄り添う。そして誰も見ていなくてもそこにはイエス様がおられ、イエス様は知っておられるのです。

もう一つは、「小さな者たちにしたのは、私にしてくれたことのだよ」という言葉です。それは他人事ではありません。私たちもまた、悲しむ時があり、悩む時があり、痛む時があります。孤独を覚える時があります。いつかは右に分けられた人たちが寄り添ってくれるでしょう。

しかしその前に既にそこにはイエス様がおられるのです。既に共に悲しみ、共に悩み、共に痛んで下さる主はおられます。 最初に言いましたように、この話は「譬え」です。共におられる神様を信じる、ということは、私達も共に生きようとしてゆく、ということなのです。 (田中伊策牧師)

そこにはイエス様がいる マタイによる福音書25章34-40節

 

「「委ねる」という事」 マタイ19:16-22節

「金持ちの青年」という題がついているこの聖書の箇所は、他の福音書にも類似の記事があります。マルコ10:17-31、ルカ18:18-30です。そして、それぞれには違いもあります。このマタイでは「青年」であるところがマルコでは「男」とか「人」と書かれています。ルカでは「ある議員」と書かれています。これだけでも大きな違いです。

「男」「人」と書かれたマルコでは単に財産を持った人物、「議員」と記すルカではそれに加えて名誉も持っていた人物、という設定です。では「青年」だったらどうでしょうか。そこから考えられる事は、彼が自分で稼いだお金ではない、ということです。今だったら「大学生が在学中にIE企業を作って大儲け」なんて話も聞きますが、そこは2000年前。そんな奇抜な設定にはしないはずです。

「金持ちの青年」とは、つまり裕福な家庭に育ち、所謂「良い」教育を受け、優等生で育って来た青年です。 そんな彼は自分に足らない所がある事を感じていました。それでイエスのところに行って尋ねます、「先生、永遠の命を得るには、どんな善い事をすればよいのでしょうか。」(16節)。そしてイエスの言葉に対して「そういうことはみな守ってきました。」(20節)と答えます。彼は間違わないように、後ろ指をさされないように、そして握っているものを離さないように頑張って来たのでしょう。

「永遠の命」とは決して「いつまでも生き続ける」という意味ではありません。それは「永遠である神様と共にある歩み」「神様から離れない歩み」のことです。離れないために大切なのは手を繋ぐ事です。でも、彼の手は最初から親から与えられた物でいっぱいで、それを離さないようにして来たのです。それでイエスは言います「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(21節)。「売り払って」とあります。(自分の所有する)物のままで渡さないために、お金にする必要があるのです。

彼は「金持ちの青年」、すべてを親からもらった若者でした。元々自分の所有などないのです。それを自分の所有のように抱えるからおかしなことになるのです。でも、私達も同じようなものです。神様からすべてを与えられているのに、自分で手に入れたように思うからおかしな事になるのです。自分の所有ではなく神様に与えられた物、預かった物として神様に委ねつつ、尋ねつつ用いるのです。(牧師:田中伊策)

「委ねる」という事 マタイによる福音書19章16-22節