タグ別アーカイブ: マルコ

「嵐のただ中で信じる」マルコ6:45-52

「イエスは弟子たちを敷いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた」(45-46節)

イエスは弟子たちと群衆がいる中で、弟子たちを先に舟で向こう岸にやり、そして群衆を解散させます。弟子たちもいない、群衆もいないという中で、イエスは祈るために山に登られた、というのです。一人になったのだからそこで祈ることも出来たのですが、わざわざ祈るために山に登られます。私は「山」ということでよく思い出す事があります。

私が神学校を出て、最初に牧師として赴任したのは静岡でした。静岡には日本一高い山、3776メートルの富士山があります。この富士山を静岡では至る場所から見ることが出来ます。見るというよりも見られているという感じ、どこからでも上からこちらを見られている、そんな感じです。

ところが、当時私が住んでいた家の窓からは富士山は見えませんでした。それは、私の家と富士山の間には隣の家があったからです。その家はたった数メートルの高さの建物です。そのたった数メートルの建物が目の前にあるために、3776メートルの富士山が見えなかったのです。

そして、いつも私は、「神様と人間の関係も同じだなぁ」と思っておりました。神様は変わらずにおられる。でも、私たちの人生において、目の前に何か問題や悲しみ、煩いがあると、途端に、神様と自分との関係がさえぎられてしまう。人生の小さな出来事も目の前にたちはだかると、大きな神様が見えなくなってしまう。ほんの数メートルの建物があるだけで、3776メートルの富士山が見えなくなるのと同じだと思うのです。

それで話を戻しますが、山に登る、というのは自分と神様との間に隔てを置かない場所に身を置く、ということなのではないでしょうか。問題も、煩いも、悲しみもある人生です。しかしそれを神との間の隔たりとしないで、丸ごと抱えたまま、神の前に出る、それが山に登るということだと私は思うのです。(牧師:田中伊策)

嵐のただ中で信じる」マルコによる福音書6章45-52節

「恵みとして数える」マルコ6:30-44

『さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。』(マルコ6:30-31)

「使徒」というと「イエス様の立派なお弟子さん」というイメージがあるかもしれません。「使徒」=「イエス様の直々の12人の弟子」みたいな感じで。でも、この使徒という言葉は新約聖書の元々の言葉であるギリシア語では“アポストロス”という言葉が使われており、そこには「遣わされた者」という意味があります。そう考えると、礼拝に出席して元気をもらって「さあ、ここから歩み出しなさい」「いってらっしゃい」と送り出される人はだれでも「使徒」になる訳で、それで良いのだと思います。

ただし、出て行ったままではなく帰ってくる事が大事です。教会はそうやって帰ってくるところです。実際、「教会」という言葉はギリシア語では“エクレシア”と言いますが、「呼び集められた人々の集まり」という意味を持ちます。「おいで」「おかえり」と言われる場所であり集まり、それが教会だということです。そして、誰から「いってらっしゃい」「おかえり」と言われるか、それが神様です。

「いってらっしゃい!」「おかえり!」と言われる場所として多くの人が真っ先に思い浮かべるのは、きっと家庭だろうと思います。だから教会は「神の家族」というのです。神様から招かれ呼ばれて共に礼拝し、そこからまた神様からそれぞれの場所へ送り出される。それが教会なのです。家の食卓で今日あったことを話すように、送り出された場所での神様の恵みや自分の行った事を分かち合う。家や家族の安心の中で休むように、教会で安らぎ力をもらう。そんな教会の姿をこの聖書の言葉は示しているように思います。家族は年齢も性別も違うけど一緒が当たり前、分かち合うのも当たり前。教会も同じです。 (牧師:田中伊策)

「恵みとして数える」マルコによる福音書6章30-44節

「最後の敵はプライド」マルコ6:14-29

イエスが十字架にかけられた時、そこを通りかかった人々は「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」(マルコ15:29-30)と言ったと書かれています。「自分で自分を救ってみろ」と言っているのです。今の言葉で言うと「自己責任論」です。溺れている人に「自分で自分を助けなさい」と言うような愚かな言葉です。私たちは他者から助けてもらったり、救ってもらったりしなければならない存在なのです。それなのに私たちはそのように出来ないのです。その原因の一つがプライドです。恥ずかしくて「助けて!」と言えない。一生懸命に自分で作り上げてきた自分の姿を壊すようで、今後人からどう思われているか気になって「助けて」と言えない。そんなうちに、私たちの体も心も沈み込んでゆく。

「自分で自分を救ってみろ」というのはイエスを他人事に思うからです。そうではなく、イエスは他者を救ったからこそ十字架で死なれたのです。この「他者」は「他人」ではなく「私」です。だから教会で信仰に入る事を「救われる」というのです。だから教会では「私を救うために十字架にかかられた」とか「私の罪と共にイエスは十字架にかかった」とか「私の罪がイエスを十字架につけた」とかいうのです。

けれどもこのプライドというやつはやっかいで、何度でもむくむくと膨れ上がってしまいます。救われたはずの自分がいつの間にか真理を自分で掴み取ったような気になって人に自慢したり、立派なクリスチャン像を作り上げて弱みを見せられなかったり。自分で演じている自分、人から期待されている自分から自由にされて(救われて)信仰に入ったのに、そこでもまた作り上げようとしています。人はつくづく救われない、とがっかりしてしまいます。それでもその救われないような「私」を神は愛してくださっています。だからここから何度でも救ってもらいましょう。自分で自分を救うことは出来ないのですから。(牧師:田中伊策)

「最後の敵はプライド」マルコによる福音書6章14-29節

「あのイエスが選んだ十二人」マルコ3:13-19

「十二使徒」という言葉は、かつては完全にキリスト教用語でしたが、今はキリスト教に興味のない人も結構知っている人もいる言葉です。「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメーションの中にはキリスト教用語がふんだんに出て来ており(聖書の偽典・外典に載っていてクリスチャンも知らない言葉も出てきます)、「使徒」は主人公たちに対して攻撃してくる生物というか物体というか、そういうものでした。

さて、この聖書の箇所はイエス様が12人の特別な弟子、「使徒」を選んだという箇所です。 ここにはまず、「山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た」とあります。山に登ってから呼び寄せたということは、イエス様が山に登られると多くの人たちがついて来ていた。その中で特定の人を呼んだ。それが十二使徒ということです。

多くの中で特定を選んでその人の名前を呼ぶ。呼ばれた人は誇らしげに前に進み出たのでしょうか。だとするとイエス様の行為としては不思議です。イエス様は悲しむ者、傷む者、虐げられた者のところに行かれた方です。そのイエス様が自分の働きのお手伝いに「出来る」人を選ぶでしょうか。そうとは思えません。むしろ、この12人が選ばれたのは彼らがイエス様の近くにいないといけない人だったからなのだと思います。その証拠に福音書を見ると使徒たちはむしろ足手まといで、邪魔ばかり。意図的でないにしろ、主人公のイエス様の働きを邪魔したり攻撃したりする側になっています。

私達はどうでしょう。同じなのではないか、と思います。私達は出来るからでもなく、偉いからでもなく、むしろ目が離せない、手が離せないから私の側にいなさい、と招かれたのではないか、と思うのです。自分に対して「ダメなだなぁ」と思っているこの私に対し「あなたが大切だ」と言ってくれるから信じていける、従っていける。それ以上のものが自分にあると勘違いした時、使徒たちもイエス様に叱られています。(牧師:田中伊策)

「あのイエスが選んだ十二人」マルコによる福音書3章13-19節

「その生き方に共感する」マルコ3:7-12

「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。」(マルコによる福音書3章7節)

彼ら(ガリラヤから来たおびただしい群衆)はどうして従って来たのでしょうか。病気を治してもらったからでしょうか。それもあるかもしれません。でも、それだけじゃないでしょうし、そんな意味ではなかったはずです。

例えば私達が病気になったとします。そして、ある病院に行って、良いお医者さんに病気を治してもらったとするでしょう。だからと言って私達はそのお医者さんの後を追っかけまわすような事はしないでしょう。確かにイエス様は病気を癒された、ということが書かれていますが、大切なのはそこまでの過程です。

イエス様はこのガリラヤの人々の傍らに行かれ、徹底的にその弱さに寄り添われたのです。その中で彼らは元気になっていった、そこからまた歩み出す勇気を得たのです。ガリラヤの人々はこのイエスの生き方のうちに、神を見たのです。神様は共におられる。この悲しみの中にある私と共に、この悩みの中にある私と共に、この貧しさの中にある私と、この罪に苛まれる私と、神は共におられる、その神をイエス様との出会いの中で見出したのです。そんなイエスの生き方に彼らは従ったのです。私のその生き方に連なろう、前を行くイエス様について行こう、それが「従う」ということです。
(牧師:田中伊策)

「その生き方に共感する」マルコによる福音書3章7-12節

「あなたが真ん中だ」 マルコ3:1-7

礼拝というのは、飾らない裸の思いと裸の言葉を携えて来る事です。そしてそのようにして集まった小さな群れを神は祝福されます。この世で生きる中で時に強がらなくていけない時もあるけれど、ここでは本当の私でいられる、この小さな私を神は受け止めてくれる、そして私達もお互いに補い合い支え合う、そういう場所が教会であり、礼拝はそのことを具体的に表す時なのです。

1985年に世界的にヒットした曲があります。「We Are The World」という曲。これはアフリカの飢饉と貧困層の援助のために、アメリカの超一流のミュージシャンが一堂に集まって「USA FOR AFRICA」というグループを作って歌った曲です。レイ・チャールズ、ボブ・ディラン、ウィリー・ネルソン、ポール・サイモン、ダイアナ・ロス、スティービー・ワンダー、ビリー・ジョエル、ライオネル・リッチー、マイケル・ジャクソン、シンディー・ローパー、などなど。まだまだ他にも本当にそうそうたるメンバーが参加をしています。この曲が作られる前、参加を表明したミュージシャンたちに一通の手紙が届けられた。そこにはこんな風に書かれていたそうです。「スタジオの入口でエゴを置いて来てくれ。今日はタキシードもイブニングドレスもないパーティーだ」。一人ひとりはスーパースターで、普段はいろんなプライドや肩書、経歴を身にまとっている。関係だってそう。ライバルだったり、仲が悪かったり。「でもね、今日だけはそれらをスタジオの前に置いて来てくれよ。アフリカの飢餓に苦しんでいる人の事、それだけを思いながら、そして共にそのためだけに集まれることを喜ぼう。これはお祭りなんだ」って。そんな中で「We Are The World」という曲は作られたのです。

教会の礼拝も同じだと思います。普段はいろんな肩書がある、いろんな関係がある。でも、この教会のドアをくぐる私は、共に神様の前に裸の思いと言葉だけを携えて一緒に集う、私達の弱さも悲しみも、叫びも聞いてくれる方がおられる事を一緒に喜ぶお祭りをするのです。 (牧師:田中伊策)

「あなたが真ん中だ」 マルコによる福音書3章1-7節

「あのイエスが選んだ十二人」マルコ3:13-19

「十二使徒」という言葉は、かつては完全にキリスト教用語でしたが、今はキリスト教に興味のない人も結構知っている人もいる言葉です。「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメーションの中にはキリスト教用語がふんだんに出て来ており(聖書の偽典・外典に載っていてクリスチャンも知らない言葉も出てきます)、「使徒」は主人公たちに対して攻撃してくる生物というか物体というか、そういうものでした。

さて、この聖書の箇所はイエス様が12人の特別な弟子、「使徒」を選んだという箇所です。 ここにはまず、「山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た」とあります。山に登ってから呼び寄せたということは、イエス様が山に登られると多くの人たちがついて来ていた。その中で特定の人を呼んだ。それが十二使徒ということです。
多くの中で特定を選んでその人の名前を呼ぶ。呼ばれた人は誇らしげに前に進み出たのでしょうか。だとするとイエス様の行為としては不思議です。イエス様は悲しむ者、傷む者、虐げられた者のところに行かれた方です。そのイエス様が自分の働きのお手伝いに「出来る」人を選ぶでしょうか。そうとは思えません。むしろ、この12人が選ばれたのは彼らがイエス様の近くにいないといけない人だったからなのだと思います。その証拠に福音書を見ると使徒たちはむしろ足手まといで、邪魔ばかり。意図的でないにしろ、主人公のイエス様の働きを邪魔したり攻撃したりする側になっています。
私達はどうでしょう。同じなのではないか、と思います。私達は出来るからでもなく、偉いからでもなく、むしろ目が離せない、手が離せないから私の側にいなさい、と招かれたのではないか、と思うのです。自分に対して「ダメなだなぁ」と思っているこの私に対し「あなたが大切だ」と言ってくれるから信じていける、従っていける。それ以上のものが自分にあると勘違いした時、使徒たちもイエス様に叱られています。    (牧師:田中伊策)

「あのイエスが選んだ十二人」マルコによる福音書3章13-19節

「それでも生きる」 マルコによる福音書2:18-22

「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(21-22節)

昔の人が作った葡萄酒ですから、きっと作っている最中も発酵が進み、袋はパンパンに膨らんで行ったのでしょう。それは私たち自身の姿です。イエス様の言葉という新しい葡萄酒を私達の心に入れても、私達一人一人の心や体は変わらない。一人では変わらない。信じたら前向きに生きる事が出来る、という訳じゃない。信じたら罪を犯さなくなるんじゃない。正しくあろうと思いながらも、その一歩先で罪を犯す。希望を持って進もうとして進み出した先で悲しみ嘆く。「はぁ」とため息。心にはそんなため息が増えて行く。それでも自分の頑張りで生きようとしたら、その心もその身体も張り裂けてゆくことになります。バーンアウトです。「ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。」

イエス様は「一緒に食べよう」「一緒に生きよう」と言われます。自分で頑張るのではなく、このイエス様と共に生きるという歩みこそが新しい革袋です。悲しみもため息も一緒に抱えて下さる主がおられるのです。

イエスを信じる者は、自分で自分を救う、自分で自分を守る事を止めるという生き方を始める者なのです。「その悲しみも、その痛みもイエス様は知っている。一緒に傷んで下さっている。ここからまた一緒に生きよう。それでも生きよう」と自らに、そして他者に促す者なのです。共におられる主に生かされ、私達もまたそれぞれの生活の中で伴う歩みを通して生かす歩みをしてゆきたいと思います。それでも生きて参りましょう。 (牧師:田中伊策)

「それでも生きる」 マルコによる福音書2章18-22節

「聖域の無い信仰」 マルコ2:13-17

税金は国や県や市などの地方自治体が、そこで暮らす個人や地域全体の役に立つ働きをするためにそこに住む人たちから徴収するものです。つまり、税金とは回り回って自分たちの利益になるものです。ところが、イエス様の時代のイスラエルでは、税金と称しながら、一切イスラエルの人々のためにならないものがありました。当時、イスラエルを支配していたローマに行ってしまう税金が多くあったのです。ローマの人はイスラエルの人の怒りがこちらに向かわないように、と税金を徴収する人たちをイスラエル人の中から選びました。ローマの思惑通りイスラエルの人たちは徴税人を嫌い「ローマの手先め!」「裏切り者!」「お前たちのせいで俺たちは貧しいんだ」と罵られていました。「収税所」に座っていたレビもそうでした。いつも、人々が捨てるように入れ、ぶつけるように渡されるお金を悲しい気持ちで集めていました。

最近、多くの人々が彼の前を通ります。何でも「イエス様の話を聞きに来た」とかで。すぐ近くの湖の畔でその人は群衆に慰めの言葉を語りかけていたのです。そして、帰る時はみんな良い顔をして帰って行きます。レビも悲しい気持ちを抱えていましたから、その元気な顔に羨ましさと隔たりを感じながらおりました。「自分は行っちゃいけないんだ。自分には行く資格はないんだ」そう思っていたからです。

ところがある日、いつものように人が通り過ぎる中で一人の男性がレビの前で立ち止まりました。それがイエスでした。彼は言います、「わたしに従ってきなさい」。レビはすぐに立ち上がり、イエスと共に湖畔へ向かいます。民衆からも白い目で見られていたレビも、今日はイエスの導きの中で人々と共に慰めの言葉を聞きます。イエスが民衆と徴税人をつなぎます。ぶつけようのない怒りを徴税人個人に向け刃を立てる民衆の罪も、それでも徴税人として生きなければならないレビの悲しみも抱えて慰めを語ります。民衆の貧しさと虐げの悲しみの底に横たわる罪も、徴税人の仕事の裏側に忍ばせた悲しみもイエスは知っています。 (牧師:田中伊策)

「聖域の無い信仰」 マルコによる福音書2章13-17節

「一緒に苦労する力」 マルコ2:1-12

「四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」(3節・4節)

イエス様のところにいっぱいの人が集まっていたところに、四人の人たちがやって参ります。隔てを越えてでも、敷居の高さをものともしない人たちがやって来ました。敷居なんて言っていられない。彼らは病人を抱えていました。「運んでくる」それは彼らが体の不自由な人の代わりになった、この人の足になった、ということです。彼の代わりにイエス様の所に向かう足になりました。彼らは敷居の高さを打ち破り、屋根に上って屋根を壊します。彼らは風穴を開けたのです。

教会の中にいたら、教会という場所の敷居の高さにはなかなか気づかないものです。例えば歩く事に苦労しない人には少しの段差は感じないのですが、不自由になったり、高齢になったりしたらちょっとの段差でも苦労します。そういう人との出会いや、自分がそうなった時に初めて敷居を感じるのです。教会の中から「おいで、おいで」と簡単に言っている間は、キリスト教に馴染みのない人が感じている敷居に気づかない、若しくは忘れてしまっているのです。

だから私達は教会の外で人と出会う事が必要です。そしてその出会いから私たち自身が「風穴を開けてもらう」のです。「風穴を開ける」とは「閉塞状態にある組織などに新風を吹き込む」という意味です。「風穴を開ける」というのはそこに新しい風が吹き込まれる、神様の語りかけとしての風が流れる。新約聖書で「風」と「聖霊」とは同じ意味の言葉です。出会いの中で、教会が形を変える、風を通す、そういうことが問われているのだろうと思います。 (牧師:田中伊策)

「一緒に苦労する力」 マルコによる福音書2章1-12節