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待っておられるイエス様 ヨハネ 21:1-14

待っておられるイエス様
ヨハネによる福音書21章1~14節

聖書の一番最初にある創世記のさらに最初の1章には1節に「初めに神は天と地とを創造された」とあるように神様がこの世界の全てを創られたという事が書かれています。不思議な事がいろいろと書かれていますが、その不思議よりも大切なのは神様の想い(愛)によって一つ一つの命は創造されたという事柄です。

その創造の業は2章4節まで続いています。しかし、その続きを見ますとまた「主なる神が天と地とを創造されとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった」とあり、そこから再び創造の出来事が書かれています。けれども、これは神様が2度世界を創られたという事ではなく、異なった二つの天地創造の記事(物語・神話)を重ねて記しているのです。

大切なのは歴史的「事実」がどうであったかよりも神の「真実」は何か、ということです。一人一人の神との出会いが違うのですから、神を語る言葉は一人一人違います。聖書は正にそのようなものです。違う時代に違う場所で生きた個人や集団がどのように神と出会ったかが記されているから聖書には同じような事柄が重ねて書かれていたり、相反するような言葉が記されていたりするのです。

ヨハネによる福音書にはイエス様の復活の記事が何度も違った形で記されています。20章に復活のイエス様との出会いの記事があり、21章ではまた新しく復活のイエス様との出会いが記されています。そしてさらに四つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)はみんな違う復活の記事が記されています。これも同じです。大切なのは福音書を組み合わせて辻褄を合わせる事ではなく、一人一人が生きている所で復活の主と出会う事です。イエス様は既に私たちと共におられます。そして待っておられます。 (牧師:田中伊策)

主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか ヨハネ13:1-11

主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか

ヨハネによる福音書13章1~11節

 

ある晩、イエス様と弟子達は食卓の席につかれていました。食事の最中、突然イエス様は立ち上がり、上着を脱ぎ、手拭いを腰につけ、それからたらいに水をくみ始められました。それは足を洗う時に奴隷がする光景です。一同は唖然とします。

 

イエス様は黙々と弟子達の足を洗います。弟子達はイエス様にされるがまま、足を洗ってもらっていました。一番弟子のシモン・ペトロの晩になった時、ペトロは言いました、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」。 ペトロは愚直な人間です。トンチンカンな事もよく言うのですが、誰も言えないような言葉をイエス様に語るのも彼です。

 

「イエス様のなさることだから」と自分に言い聞かせて、疑う事をしないのであれば、それはスイッチで動くロボットみたいなものです。ペトロにはそんな事は出来ません。だから尋ねます。イエス様もまた弟子達にロボットのように従う事を望んではおられません。イエス様は人として従う事を望まれるのです。

 

人として生きたら信じていても悩みはあるし、疑いもあるし、悲しみだってある。そんな私達の心と、イエス様の洗われた足とが重なります。昔はサンダルのようなもので歩いていたでしょうから足が一番汚れる場所です。仕事をしたり、友達のところに行ったり、とにかく生きていたら汚れて行く、傷付きもする、そして痛む。それが足です。

 

その足を弟子となった後もイエス様は洗われます。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもないことになる」。生きていたら汚れて来る足、傷付く足、痛む足をイエス様は洗われます。あなたがたを愛しぬく、というメッセージです。 その晩は、最後の晩餐の日でした。その後、イエス様は捕らえられ、不当な裁判の後、十字架にかかられます。愛しぬく先に十字架はあります。 (牧師:田中伊策)

「神の言葉 イエス・キリスト」 イザヤ書55:8-11

時に神のすべてを知った気になることがある。あたかも、神の全体像(神の思い・計画)を、すべて隅から隅まで見ているように錯覚してしまうことがある。しかし、まったくの逆である。圧倒的な神の恵みの下に、私たちがいるのであり、私たちが見ているのは、神の全体像のほんの一部である。その全体像を私たちは知らない。

今日の聖書の言葉、「天が地を高く超えているように わたし(神)の道は、あなたたちの道を わたし(神)の思いは あなたたちの思いを、高く超えている」。この言葉を受けたのは、預言者イザヤである。捕囚末期、解放の時が近いことを告げ知らせ、絶望し、あきらめていた人々に、エルサレムへの帰還を強く促し、慰めの言葉として語られた預言である。

しかし、のちの時代を知る私たちは、歴史がこれらの預言(40-50章)にあるように、実現したとはいいがたいということを知っている。エルサレムは大国の脅威にさらされ続け、ローマの支配にのみこまれてしまう。 重要なのは、神の言葉である。神の言葉は活動する言葉であり、神が語られるところでは、何事かが起こされるのである。「わたし(神)の言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。

それはわたし(神)の望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」。神の言葉は、必ず神の望むことを成し遂げ、神の使命を果たす。人間の思いを超えた神の思いを、神の言葉は「必ず」果たす。そのことは、イエス・キリストによって、実現した。神の思いは人間の思いを超える。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネ3:16)。」神の言葉、イエス・キリストが、昨日も今日も明日も共にいてくださり、私たちを慰め、励まし、力づけていてくださる。 (青木紋子神学生)

神の言葉 イエス・キリスト イザヤ書55章:8-11節

 

「愛するために生まれた」 ヨハネ3:3, ヨハネⅠ 4:7-9

世の中はいつも、割に合わない事、理に適わない事が起こります。世の中と大きな事を言わなくても、そして遠くまで見なくても「神様を信じているのにどうして?」「神様がいるのなら何故?」と思えるような事はきっと一度や二度では無かったでしょう。それに対して周りの人はこの「割に合わない出来事」に辻褄を合わせるために「神様の罰(ばち)が当たった」とか「神様に裁かれた」と言います。

「なんか知らんけれど、この人(誰か)が悪い事をしたから」という事で自分を安心させようとするのです。しかし、よく考えますと結局、都合の悪い事は神様のせいにしてしまおう、という事です。分からんことは神様のせい、困ったことも神様のせい。そしてそのように読める箇所も聖書にはたくさんあります。そして実際、人々はそういう困った事が起こった人を「神様から罰を受けた人」とレッテルを張り、遠ざけて、隔離しておりました。「私は悪くない。この人が悪いんだ。そして神様が悪いんだ…」。人間は自分の正しさを守るために神様だって悪に出来るのです。

けれども、イエス様は言われます、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)。「父」とは神様の事です。『神様は罰なんて与えないよ。私達は愛されている』というのです。その「神様の愛」と比べたら「自分の正しさ」がどれだけちっぽけなものかが分かります。そしてその神様の愛の大きさをイエス様は示されました。

「この人のせい、神様のせい」という人々に対し「じゃあ、私のせいにしなさい」と引き受けられたのです。そこから「私は悪くない。私のせいじゃない」という「罪」の大きさが現れてきます。『キリスト教はすぐに、罪人、罪人、って言うけど、私は法に触れることなんてしていません。自虐的だ。」と言う言葉を聞くけれど、誰かのせいにするという事、自分を正しいとすることが罪なのです。

そして、イエス様は誰かのせいにしなかった。神がそうであるように愛された。それは私達人間の進むべき道を示しています。神様は私達を愛して下さっている。だから愛するのです。「この人のせい、神様のせい」にして自分を守らないで大切にしたらいいのです。愛されて生まれた者として生きるのです。イエス・キリストがそうであるように、私達も愛するために生まれたのです。 (牧師:田中伊策)

愛するために生まれた ヨハネによる福音書 3章3節 ヨハネの手紙Ⅰ 4章7-9節

「道になられる救い主」 ヨハネ14:6

マタイによる福音書はイエス様の誕生の出来事において、占星術の学者たちが来た事を伝えています(2:1~12)。彼らは東の国からやって来ました。東にはかつてイスラエルを支配したアッシリアやバビロニアやペルシアといった巨大な国がありました。戦いに勝って他の国を支配して大きくなり、戦いに敗れて飲み込まれてゆく。そんな事を繰り返していましたが、この時代は西にあるローマ帝国のためにすっかり落ちぶれています。「東の国」にはそんな意味があります。

彼らは新しい王を求めます。イスラエルに新しい王が出現する、との情報を得て、彼らはイスラエルに行きます。行った先は首都エルサレムの王の宮殿です。王を求めて王の宮殿に行く。至極当然の事です。しかし、そこに王はいませんでした。さらにエルサレムの人々は新しい王の誕生の事すら知りませんでした。王は自分の地位が危ういのかと恐れ、人々はこの暮らしが変わるのか、と不安になります。

しかし王はエルサレムではなく、そこから10キロほど南下したベツレヘムという村で生まれました。眩しい光のすぐ側は一番その存在が消し去られる場所です。けれども、救い主を示す星は占星術の学者たちをベツレヘムに生まれた幼子へ導きます。その星は神様の矢印です。

「ここを見てごらん!ここに私の伝えたいものがあるよ」。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(10節)と書かれています。彼らは何もまだ見ていません。でも、星が「彼だ」と言っているのです。神様が「ここに私の子がいる」と言われるのです。立派な行いが出来る人はたくさんいます。人の心を打つ話の出来る人もたくさんいます。不思議な事を行う事が出来る人もたくさんいます。イエスもそうです。しかし、大切なのはそのイエスを神が「私の子」と示した事です。イエスの歩みが神様のつながっているということです。だからイエス様なのです。

占星術の学者たちはイエス様と出会い、捧げ物をして帰ります。彼らは「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(12節)とあります。「別の道」とは神様につながる道です。戦いに勝つ道ではなく、この世的な豊かさを求める道でもなく、小さな命と共にあるその道こそ神様につながっています。「私はベツレヘムに私の子を与える。ここに私につながる道を備える」クリスマスにはそんなメッセージがあります。(牧師:田中伊策)

道になられる救い主 ヨハネによる福音書14章6節

「すべてを注ぐ救い主」 ヨハネ19:28

イエス様は十字架の上で「渇く」と言われました。十字架刑は十字架になっている柱に手足を釘打たれるという残酷な処刑方法です。釘打たれた手足はそれだけで苦しいのに、そこに全体重がかかり続けるため気絶する事も出来ません。叫び続け喉はカラカラだったでしょう。そして釘跡からは絶えず出血があります。貧血状態でフラフラになっていたことでしょう。カラカラ、フラフラで「渇く」のは当たり前です。けれどもこの「渇く」という言葉はそのような意味ではありません。それは福音書が次のように記しているからです。「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた」。

悲しむ者と共に悲しまれたイエス様でした。やがて裏切り逃げ出すことを知っていたのにその弟子達を最後まで見放すことをせず守られたイエス様でした。自分の立場や地位を守るためにイエス様を十字架につけようとした人々を責めることなく十字架に向かわれたイエス様でした。出会うすべての人々に愛を注がれたイエス様でした。「渇く」とはその愛をすべて注ぎ、その命を終えようとしているという事です。イエス様の中には愛しかなかった、という事です。神様が私達にイエス様を与えて下さった、それは神様が私達をただ愛そうとして下さっているメッセージです。

それにしても愛を注ぎ尽くして十字架で死を迎えるとは、何と理不尽で何と悲しい事でしょうか。愛する先には絶望が待っているのでしょうか。確かに報われない事も多くあります。そして私達は愛する事に躊躇しそうになります。しかし、「そうではない。神様は愛するということを意味のないものにされない」と聖書は語ります。神様はイエス様を死の中から甦らせた、と伝えているからです。「私はあなたがたと共にいる。あなたがたが愛そうとする歩みを意味のないものにしない。絶望で終わらせない。」イエス様の降誕を私達が喜び祝う理由がここにあります。すべてを注いだ救い主を喜ぶのです。 (牧師:田中伊策)

「すべてを注ぐ救い主」 ヨハネによる福音書19章28節

 

「涙を流す救い主」 ヨハネによる福音書11章35節

イエス様は「私は道であり、真理であり、命である」と言われます。「私は道」つまり、私の後をついてきなさい。私に従いなさ。この道を行きなさい、と言われるのです。そのイエス様が涙を流される。それは、イエス様が私達に涙することを許された、ということです。イエス様の涙は、私達が泣いても良い、ということです。彼女たちの「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」という嘆きを、そして私達の「神様がいるのだったらどうしてこんな事が起こるのですか」という思いと言葉をイエス様は許されている、という事です。嘆き悲しむそのままの私達をイエス様は包まれるのです。「泣きなさい。悲しみなさい。私もあなたのために泣こう。その悲しみをわたしも受取ろう」。

残念な事に神様を信じていても私達に悲しみは訪れます。そして、その象徴として死は訪れます。誰にでも必ず死が訪れる、ということは誰にでも必ず悲しみは訪れるという事です。そしてそれを知りつつ悲しみの前でなお私達は嘆きます「神様がいるのだったらどうしてこんな事が起こるのですか?」マルタとマリアの言葉を借りるなら「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」。そこに神様がいなかったからこんな事が起こったのでしょうか?イエス様がいたらこんなことは起こらなかったのでしょうか?

そうではありません。主は共におられます。主はあなたの悲しみの傍らにおられ涙を流されています。主はあなたのその悲しみの傍らで、同じ悲しみを受けておられます。何故なら、神様は私達を愛しておられるからです。そして、その傍らにおられ、共に涙を流される主と出会う時、いえ、傍らで涙を流される主に気づく時、希望の道のりが始まります。私達の歩みはその繰り返しです。だから何度でも涙して良いのです。 (牧師:田中伊策)

「涙を流す救い主」 ヨハネによる福音書11章35節

 

「助けを求める救い主」 ヨハネによる福音書4章7節

「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、『水を飲ませてください』と言われた。」 (ヨハネ4章6-7節)。

「疲れた」だの「水を飲ませて下さい」だの、何とも弱み丸出しの「救い主」です。しかし、そんな救い主の弱い姿はここだけではありません。その誕生からそうです。家畜小屋で生まれ、飼葉桶に寝かされた赤ん坊。その姿は弱さそのものです。そしてその死もまたそうです。十字架につけられて「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫びながら死んでいかれたイエスの姿は弱さの極みです。始まり(誕生)も終わり(死)も弱さなのですから、その間の生涯も弱さの中にあっても不思議はありません。

「水を飲ませて下さい」と弱さをさらけ出し助けを求める救い主の姿は弱い人間そのものです。けれども逆に人間はなかなかその弱みを見せたがりません。別の何かで包み隠したり、他の人の弱さを指摘して誤魔化したりしてしまいます。誰もが弱いって知っているのだから人間同士その弱さを隠さなくても良いはずなのに。互いに「助けて」って言えば良いのに。共に生きたら良いのに。

イエスは「水を飲ませてください」と言われます。この助けを求める救い主の姿は、神が人と共に生きようと決意された証です。そして家畜小屋の飼葉桶に寝かされた幼子の姿もまた、神が私達と共に生きる決意の姿なのです。 (牧師:田中伊策)

「助けを求める救い主」 ヨハネによる福音書4章7節

「子どもから始まる祝福」 ヨハネ6:3-13

5000人の空腹な人々を前に弟子たちはなすすべもなく立ち尽くしています。考えれば考えるほど絶望的になります。「一人200円としても5000人で100万円[200デナリ]!?しかもそれでも足らないし。」(一日の労働者の賃金1デナリを5000円と換算)。 しかし、そこには五つのパンと二匹の魚をもった少年がおりました。「こんな程度では役に立たない…」と弟子たちは思いましたが、イエス様は感謝の祈りをして、分け与えます。すると皆が満腹します。

これはイエス様だからできた奇跡です。では、この出来事は何を私達に伝えているのでしょう。「イエス様ってすごいだろう!」と言っているのでしょうか。確かにそうです。しかし、それだけではありません。聖書は「私達にもそのようにしなさい」と促しているのです。「いやいや、そんな不思議な事、そんなすごい事私には出来ません」と言うでしょう。確かに私達の力は小さい。しかし、その小さな働きを神様は用いられます。用いようとされています。一歩踏み出すことを期待してられます。しかし、大人にはその一歩の勇気がなかなか持てません。常識や経験が邪魔をするのです。だからこそ少年はその一歩を踏み出せたのです。

幼子のようになりなさい、と言われたイエス様の言葉を思い出します。私達が幼子を真ん中に置く時、大切な事を教えられます。そして、そこから大きな神様の働きを見ることが出来ます。 (牧師:田中伊策)

「子どもから始まる祝福」 ヨハネによる福音書6章3-13節

「あなたがたに平和があるように」 ヨハネ20:21-23

あなたがたに平和があるように
ヨハネによる福音書20章21-23節

「俺たちも捕まってイエス様のように殺されるんじゃねえか!?」イエス様の弟子達はそう考えて心配していました。イエス様は人々に捕えられ、不当な裁判にかけられて十字架にかけられて殺されてしまったのです。

「きっと次は俺たちの番だ」と怖がっている弟子達は、家の鍵を閉め、部屋の真ん中に集まってお祈りしました。でも、どのように祈りしてよいかも分からず、ただただ「神様、神様~!」と怯えていました。そんな時にイエス様の声が聞こえました、「あなたがたに平和があるように」。

目を開けるとみんなで集まっていた真ん中にイエス様がいます。「えっ?」と弟子達は驚きました。イエス様は十字架にかかって死なれたからです。すると、イエス様はみんなに十字架の傷を見せました。「あっ、本当にイエス様だ。あの十字架のイエス様が俺たちの所に来てくれた!」。

イエス様が捕まった時、弟子達はみんな逃げてしまいました。だから、弟子達は十字架にかかられたイエス様を見ていないのです。それなのに、イエス様の方から弟子達のところに来て、その傷を見せてくれたのです。

みんなの真ん中で「あなた方の弱さを背負って私は十字架にかかったのだ。あなた方の事は私が一番良く知っているよ。」とイエス様は語ってくれています。そう思った時、弟子達の心は静かになりそして喜びに包まれました。

イエス様はもう一度「あなたがたに平和があるように」と言われました。「進み出しなさい!」と言って「ふ~」っと息を吹きかけました。舟が風を受けて水の上を進むように、私の言葉を受けて進み出しなさい、と言われているようです。今度は弟子達の番です。

「困ったなぁ」と思っている人達、「悲しいなぁ」と泣いている人達、「怖いよぉ」と怯えている人達、「こんな事して、もう赦してもらえないよなぁ」と後悔している人達のところに言って「あなたがたに平和があるように」と言ってあげる番です。イエス様に赦されたように赦す人として歩み出すのです。(牧師:田中伊策)